【この空の下にB】 P:05


 掴んでいた腕はもうとっくに離していたが、彼は足を止めず、隣にいてくれる。
 泰成は何歩か足を速め、彼の正面に回って、後ろ向きに歩き出した。

「なあ」
「…何だ」
「まだ名前を教えてくれないのか?」

 にこりと屈託のない笑みを浮かべた泰成に何を感じたのか、男は昨日までと少し違う感じの、苦い表情を浮かべた。
 一度薄く唇を開き、閉じて。思案する素振りを見せていたかと思うと彼は、軽く頭を横に振った。

「…僕の名を知って、それが何になると言うんだ」
「何って…呼びたいんだよ」

 当たり前で、当然の答え。
 泰成には考えるまでもない言葉だったのだが、彼はふいに足を止めて、驚きに目を見開いた。
 予想もしていなかった、とでも言いたげな男の表情に、泰成の方こそ首を傾げてしまう。
 自分はそんな、おかしなことを言っただろうか。
 同じように足を止め、じっと男を見つめる。素直な気持ちを口にした。

「あんたの名を呼びたいから、聞いてるんだ。名は、人から呼んでもらうために付けるものじゃないのか?」
「泰成…」
「そう、そうやって。あんたは私の名を呼んでくれるだろ。他の誰でもなく、私だけに向けられた言葉じゃないか。なら私も、貴方の名前を呼びたい」

 たまたま前を通り過ぎた人間じゃない。ここにいる、貴方を呼ぶ名前。
 珍しく真摯な態度で言葉を重ねる泰成を前に、男は少し苦しげな表情を見せる。泰成にはわからない何かを躊躇って、葛藤しているように見える。
 泰成は彼の答えを静かに待っていた。
 しかし男が額に汗を浮かべ、苦悶の表情になったところで、仕方なく溜め息を吐いた。

「もういい」
「………」
「そんなに苦しむほど迷うなら、言わなくてもいい。行こう」

 貴方を困らせるのが目的じゃなかったんだと、言下に伝えて泰成はもう一度、彼の手を取った。
 しかし彼は抗い、足を止めていて。

「どうした」
「…別に、大したことじゃない」

 汗を浮かべて苦しむほどの葛藤があるくせに、彼は首を振って見せる。どうでもいいことだ、名前くらい、と。自分に言い聞かせているような、掠れた声。
 泰成は強情な彼の様子に肩を竦める。

「だから、もういいと言っただろ」
「煩い。指図するな」
「指図じゃないって…」

 呆れる泰成の手を振り払い、男は再び歩き出す。
 そのまま黙って泰成の横を通り過ぎ、今までよりずっと力強く、まるで何かに抗うような歩調で歩いていた男は、しばらく行って立ち止まった。