【この空の下にC】 P:03


「シルヴィア?!」
「いや、いやああっっ!」
 何かに怯え、泰成の腕を振り解いた彼女は、見えぬものから逃げるようにして扉へ走っていく。
 侯爵夫妻を交互に見ながら素早く立ち上がった泰成は、立ち竦む秀彬を強く引き寄せた。
「…何があっても離れるな」
「は、はいっ」
 少年を庇ったまま、ゆっくり後ずさる。
「出して!出してえっ!!」
 必死に扉を叩く夫人は、恐怖に歪んだ顔で後ろを振り返っていた。視線の先には、何も言わない執事がいる。
 突然のことについて行けない泰成と秀彬の前で、髪を振り乱し逃げ惑う彼女は、扉を開けてもらえないと悟ると、広間の端まで走っていって、小さく蹲った。
「ごめんなさい…ごめんなさいっ…いやああっ…!おねがい、ゆるしてぇっ」
 頭を抱え込み首を振る彼女の元へ、執事がゆっくりと近づいていく。
「どうなさいました、奥様」
 聞いているだけ鳥肌が立つような、醜くしわがれた声。この男の声は、これほどまでに陰鬱としていただろうか。
「お客様の前で、なにを取り乱しておいでです。ご気分でもお悪いのですか?」
 泰成の位置からでは、執事の後姿しか見えないけど。夫人の怯える様子から、その表情など容易に窺えてしまう。
「あ、ああ…いや、いや…タイセー、たすけて…あああ」
「シルヴィア…」
 名を呼ばれ、困惑する泰成の前に音もなく立った男。彼は泰成に向かって、何も言わず首を振った。
「…侯爵」
「静かにしていてくれ…悪いようには、しない」
 わざわざラテン語で囁かれ、泰成は目を見開いた。確かに侯爵とは、お互いラテン語を学んでいたと、話をしたことがある。二人で話したのはその時くらいだったから、良く覚えていた。
 確か、彼のラテン語の担当教授が東洋人だったとか何とか。
 泰成はじっと侯爵を見つめ「わかった」と同じようにラテン語で返した。
 声が聞こえたのか、執事が自分たちを振り返っている。
「どうかなさいましたか、旦那様」
「…なんでもない」
「ふむ…先ほどの言葉は、なんと?」
 差し出がましい執事に対し、侯爵はゆるゆる首を振った。
「他言無用に願うと、そうお願いしただけだ」
「ははは、旦那様。あなたはお優しい方だが、それだけが欠点ですな」
「スミス」
「おやおや、口が過ぎましたか。どうにも私は先代様にお仕えしていた頃の癖で、貴方様を子供扱いしてしまうようだ…おい」
 部屋に控えていた男たちを呼び、執事はもう恐怖で声も立てられなくなっている夫人を見下ろした。
「奥様はお疲れのご様子だ。部屋へお連れして差し上げなさい」
「っ!…スミス、その必要はない」
「旦那様」
 焦った様子で止めようとする侯爵に、嫌味な笑みを浮かべたまま、執事は首を振っている。その様子は確かに、子供の悪戯を咎めているかのようだ。
「お気になさることはない。このスミスに、全て任せて下されば良いのです。旦那様も、もうお休みになられるが良いでしょう……随分、遅い時間だ」
 勝手な執事の言い分に、侯爵は口を開きかけ、黙り込んだ。
 指示を受けた男が近づいていくと、夫人は、子供のように怯えて震えていた。
 その、恐怖に彩られた視線。
 彼女が酷い折檻を受けていることを、容易に想像させる。
 泰成は唇を噛んで、幼い従者を抱える手に力を込めた。彼の顔を自分の身体に押し付ける。もうこれ以上、見せたくない。
「…笠原君」
 唐突に名を呼ばれ、泰成は侯爵に目をやった。自分の妻を助けることも出来ないでいる哀れな男。
「…なんでしょう、侯爵」
 答えるものの、口の中がからからに乾いていて、不快さに泰成は顔を顰める。
 侯爵は激しく頭を振り、蹲る夫人をただじっと見つめていた。
 執事から命じられた男が、無表情なまま彼女の髪を掴んで無理矢理引きずり上げている。
「ひ、あ…ああっ、やめ」
 痛みに髪を押さえ、涙を零す夫人の姿はあまりにも哀れで。泰成は眉を寄せ、思わず非難の言葉を口にしてしまう。
「あまりに酷いと思われないんですか」
 しかし侯爵は、その言葉に振り向こうとしない。老齢の執事も、聞こえた素振りさえ見せなかった。
 侯爵が吐いた溜め息を、泰成は見逃さなかった。
「君は…私の客人だ」
「侯爵」
「しかし十分なもてなしが出来ず、申し訳ないと思っている」
 独り言のような呟きに、執事がくっと口元を吊り上げた。まるで侯爵の言葉を、嘲笑うかのように。

 侯爵はそのまま、大きな扉から姿を消していった。夫人を引きずる男も、同じように出て行って。
 残されたのは、年老いた執事と、到底腕力では敵いそうもない、屈強な男。
 そこへ新たに現れたメイドは、慣れているのか何も言わず、扉のところに立っている。
「…おい、牢番を呼んで来い」