【この空の下にC】 P:07


 話しかける声に顔を上げた店主の目には確かに、憎しみも怒りも感じられない。絶望的な悲しみの中で疲れ切っている様子の老人に、泰成は手を差し伸べた。
「聞きたいことがある…協力してくれないか」
「…知らん…わしは何も、知らん」
 力なく首を振る老人の腕を掴み、強引に連れ出した泰成は、念のためもう一度牢に鍵をかける。
 繋がれているとはいえ、相手は殺人鬼だ。万が一のこともあるだろう。

 打ちひしがれる老人の傍に膝をついた泰成の元へ、惺と秀彬も近づいてきた。店主の身体を牢にもたれ掛けさせ、泰成は惺を見上げる。
「とにかく、情報を整理したいんだ。状況が掴めなければ、何も手を打つことができない」
「確かにな」
「私がここへ来たのは、侯爵にこの町の港から船に乗ってはどうかと、誘われたからだった。自分の領地だから出発までの面倒を見てやる、と言われてね」
「お前は夫人の愛人だったんだろう?侯爵は反対なさらなかったのか?」
「いや、侯爵は私のことだけではなく、どんなことであってもシルヴィア…夫人のやることに口を出さなかったよ。まあ、私の見ている限りだが」
 泰成は今までのことを思い出すように思案する素振りを見せ、やはりそんなことはなかった、と同意を求めるように秀彬を見る。少年も頷いていた。
「首都にいた頃のシルヴィア様は、お一人で行動されることが多くて、オペラなどには侯爵様自身から、泰成様にシルヴィア様のエスコートを、依頼されたこともあったと思います」
 思いもかけない秀彬の言葉に、惺は呆れた表情を見せる。
「それはまた…変わったお人だな。浮気性の夫人と若い男を、二人で劇場へ行かせるなんて。噂にしてくれと言っている様なものじゃないか」
「そりゃ噂になったさ。他の女が寄り付かないくらいにはな」
 そうだった。シルヴィアとの関係に、侯爵が拍車をかけると、途端に周囲は風通しが良くなって、泰成に擦り寄る女がいなくなったのだ。逆に男たちは興味津々の様子で、シルヴィアの様子を尋ねてきたものだったが。
「お前が帰国することは、予め決まっていたことなのか?」
 惺の問いかけに、泰成は首を振る。
「いや、急な帰国命令があってね」
「御当主様から至急帰国せよと、電報を受け取ったのは先々月の十五日です」
「ああ。…その時シルヴィアは、我々以上に驚いたようだった。離れたくないと急に泣き出して、手がつけられなかったよ」
 今までの遊び慣れた公爵夫人とは別人かと思うくらい、子供のように泣きじゃくっていた。
「私たちが困惑していると、いきなり侯爵がこの町への滞在を切り出してきたんだ」
「ではそもそもこの町へ来る話は、侯爵が言い出したことなのか?…いやそれより、夫人がお前の帰国を嘆いていた、その場に侯爵がいたということか?」
「侯爵だけじゃない…あの時、例のスミスという執事もいたんだよ」
 覚えている。
 帰国の話を切り出したのは、泰成が首都で滞在していた仮住まいだったが、その時は侯爵だけでなく、執事まで乗り込んできていた。
 侯爵が夫人の浮気を、容認しているのは確かだと思う。口を挟むのは、いつだってあの執事だ。
「向こうの話を聞く前に、私が帰国を切り出したんだが…おそらくスミスは私に夫人と別れるよう、忠告しに来たのだろうね」
「侯爵様が泰成様をお誘いになっていたとき、いきなりスミス様が反対なさって…驚きました」
 秀彬にとって、主の行いに人前で口を挟むなど、考えられない暴挙なのだ。それもスミスのような、ベテランの執事が。
 自分のような未熟な者でも、惺の前で泰成に逆らったことを、あんなに後悔したくらいなのに。
 思い出して肩を下げる秀彬の、丸くなった背中を惺がとんとんと叩いてくれる。
「しゃんとしてなさい」
「あ……はい」
「やり方はともかく、あのとき君の言ったことは何も間違ってなどいない。これからもこの我侭な御曹司に、付き合ってやるんだろう?――同じ事は今後、何度だって起きるぞ。上手く諌める方法を見つけることだな」
 意外と馬鹿だからな、とからかう惺を軽く睨んで、泰成は秀彬に肩を竦めて見せてやった。惺の言い分は大いに不本意だが、まあしかし……その通りなんだ、とでも言うように。
 少年の表情が少し緩んだのを確かめ、惺はまた深刻な顔になる。
「侯爵はスミスを咎めなかったのか?」
 そんな風に人前で恥をかかされたら、普通は怒鳴り声のひとつも上げそうなものだが。しかし泰成は首を振る。
「黙ったまま、下を向いていただけだ。見ている私の方が苛立つくらいにね」
「ふむ…」
「まあそんなことで、口喧しい執事の登場が、私の帰国を勝手に決めてしまおうとするのに、腹が立ってな」
「泰成…お前、まさか」
 じろりと惺に睨みつけられ、泰成はばつが悪そうに、苦笑いを浮かべる。