苦く笑う惺は、泰成の腕から抜け出し、真っ赤になったまま俯いている秀彬の手を握る。惺のために、冷たく濡らせたハンカチを持っているほうの手。
「ありがとう」
「あ、あのっ…いえっ」
心からの感謝の言葉を向けられて、秀彬はぶんぶんと首を振るけど。ちらりと惺の顔を見た秀彬は、さっきのキスシーンを思い出しでもしたのか、またぱっと下を向いてしまった。
惺と泰成は、顔を見合わせて笑う。
「お前も少しは、この子の純情さを見習ったらどうだ」
「今更ムリだね」
からかう言葉に泰成が肩を竦めると、秀彬が顔を上げた。
「そ、そんなのっ!ダメです、ムリです」
「秀彬?」
「いいんです、このままでっ。そんなの泰成様じゃありません。日本に帰ったら、みんなびっくりしてしまいますっ」
真顔で力説するものだから。呆気にとられた二人が笑い出す。
がちゃりと、重い金属の音が扉の外で聞こえたのは、その時だった。
泰成は素早く立ち上がり、扉の傍らに移動する。そこから牢の内部へ目をやると、惺に手を引っ張られる形で、秀彬は物陰に身を隠していた。店主はまるで、牢の中の息子を庇おうとでもするように立ちはだかっている。
鈍い音と共に、扉が開いた。
泰成は僅かな隙間から手を伸ばし、扉を開けた人物の腕を掴む。
「っ!」
「おとなしくしてもらおう」
掴んだ腕をひねり上げた泰成は、薄っすらと明るくなっている外に、自分が捕まえている以外の人間がいないことを確かめ、視線を落とした。
「…侯爵?」
強くひねり上げられた腕を、痛そうに押さえている人物。
「大丈夫だ、笠原君…私しかいない」
侯爵の言葉に辺りを見回すが、確かに人影は見当たらない。
ゆっくり手を離す。
侯爵は掴まれていた腕をさすりながら、背の高い泰成を見上げた。
元より血色のいい人ではないが、今はいっそう青ざめて見える。彼は一本鍵を差し出した。
「これ、は?」
首を傾げる泰成に、曖昧に笑って。
「君は確か、車の運転が得意だと言っていたね…山道でも、平気かい?」
「…ええ。大丈夫です」
「そうか…。その鍵は私の車のものだ。すぐそこに止めてある」
「侯爵?」
「中には首都までの地図と、次の町までもつよう水や簡単な食事も積んでおいた」
「待ってください、侯爵」
「車は返さなくていい。迷惑料だと思って受け取ってくれ」
勝手な話を進めながら、牢の中へ入っていく侯爵は、初めて見る惺の姿に少し驚いたようだったが、何も言わない。
追いかけた泰成に腕をつかまれ、伏目がちに足を止めた。
「どうなっているんです。車を下さると?それで首都へ帰れということですか?」
「ああ…。君には本当に、迷惑を掛けてしまった。許して欲しいとは言わない。恨まれても仕方ないと思っている」
「どうしてそんな、急に…」
「しかしどうか、シルヴィアのことは許してやってくれ…あれは可哀相な女なんだ」
見上げる侯爵の目が、疲れに落ち窪んでいる。疲労で黒くなった目の淵は、赤くなっているようにも見えた。
「侯爵…」
「全て終わったんだよ…全て、ね」
口の端を少し上げ、掴まれた手をゆっくり解く。彼は黙って泰成の手に車の鍵を押し付けると、扉を開け放ったままの牢を進んでいった。
様子を見守る惺と秀彬の前を過ぎ、店主の前まで来て。その隣に立つと、鉄格子の向こうのジェフリーを見つめる。
「…ジェフリー、君には本当に、済まないことをしたな」
侯爵はまるで、助け出そうとでも言うように、手を伸ばした。今までは時折、獣のような咆哮を上げるばかりだった彼は、侯爵の姿に絶叫し、繋がれた鎖の限り近づいてくる。
近すぎる距離に「危ない!」と誰もが息を詰めたのだがしかし、ジェフリーは侯爵の手に縋って、号泣を始めたのだ。
「…何が、どうなって…」
呆然と呟きながら、侯爵の後をついて中へ戻ってきた泰成は二人を見比べ、店主を見る。彼は悔しげに顔を歪めて崩れると、侯爵の傍で石畳を殴りつけていた。
「どうして…っ!どうしてです、侯爵様!あなたは知っているはずだ!■■を亡くした私たちが、どれほど苦しんだかを!人柱などで海は鎮まらないと、あなたは知っているでしょう?!」
叫びを聞きながら、侯爵は黙ってジェフリーに手を差し出している。自分を助けてくれなかった男に、縋って泣き叫ぶ男を哀しげに見つめて。
石畳を殴っていた店主は、しばらくするとそこへ爪を立てて、顔を伏せた。
「…さ、ま…シルヴィア様っ…シルヴィア様っ!」
侯爵夫人の名を叫び、硬い石を掻き毟る店主の手に血が滲んでいるのを見て、泰成は彼を止めた。事態を問いかけようと口を開きかけたそのとき、秀彬のそばを離れた惺が侯爵の胸倉を掴んで、鉄格子に押さえつけた。