一度だけ「お前は戻れ」と言われたが、泰成はもう引き返す気がなかった。広大な庭を抜けると、確かにジェフリーの言う通り、鬱蒼とした木々の向こうに洞窟が見える。薄暗い岩のトンネルを進みながら、泰成自身、自分がこんなことをしているのが信じられなかった。
シルヴィアの為にしているわけじゃないことは、理解している。残念だがそこまで思い入れはない。
しかし、彼女を哀れだと思う気持ちは、間違いなかった。
劇場で初めて会ったシルヴィアは、群がる男たちに妖艶な笑みを見せながらしかし、つまらなそうな様子でシェリーグラスを弄んでいた。その様子がとても絵になっていて、泰成は声を掛けたのだ。
気だるげに、興味もなさそうに、泰成の話を聞いていたシルヴィア。その彼女が初めて、本当に微笑んだのは、実は侯爵の話を振ったときだ。
彼女は楽しげな様子で、侯爵の話をしてくれた。
優しくて可哀相な人なの、と。そう彼女が呟いたのは、いつだったか。彼女の言葉は、侯爵の言葉と同じだ。
心を傾けあっているくせに、とても不器用な二人。
彼らが手を取り合えない理由が、古臭い因習にあるなら、そんな哀れなことはないだろう。
先を行く惺が、店主と共に足を止めた。
彼らの肩越しに洞窟の先を見つめる。そこには確かに、古めかしくまた大仰な祭壇が見えた。
「シルヴィア様…!」
押し殺した店主の声。指差す先には、確かに彼女がいた。
断崖の、ギリギリのところに立たされている彼女は、両手を後ろに縛られ、目隠しをされているようだ。傍らには侯爵邸で見た男が一人。
執事のスミスが芝居がかった仕草で、両手を広げ海に向かって何か祈りのような言葉を口にしている。こちらにも男が一人控えていて、他に人影はない。
全体を把握した惺たちが、どうやって彼女を救うか顔を見合わせたとき。一番後ろにいた泰成にだけ、その光景が見えた。
「シルヴィア!!!」
名を叫んで、駆け出してしまう。
考えの足らない泰成の行動に驚いて、惺はその身体を引きとめようと手を伸ばしたが間に合わなかった。
縛られたままのシルヴィアが、突き飛ばされ崖の向こうへ落ちていく。
寸でのところで間に合わなかった泰成は、一瞬で下の海まで目測を取り、彼女を追って身を投げた。
「泰成っっ!!」
悲痛な惺の叫びが聞こえてはいたが、それはもう身を躍らせた後だ。
海が浅かったら終わりだな、と。妙に冷静な考えが浮かぶ。しかし飛び出す寸前に見た海の色が、その仮定を否定していた。
先に落ちたシルヴィアに続き、海に飛び込んだ。結構な衝撃はあったが、さほど高さがなかったことが幸いして、気を失うほどでもない。
しかし鍛えた泰成とは違い、身の自由も利かず、ドレスのままで投げ出されたシルヴィアは昏倒していた。
海の中、彼女を捕まえて。
気を失って力の抜けている人間を一人、抱えて海から脱出する、その苦労に息を切らせながら、必死に陸へ上がった泰成は、自分が階段の一番下のようなところにたどり着いていることに気付いた。
犠牲となる女性の遺体を回収するためか、もしくは半端な高さに万が一にでも女性が生きていないか、確かめるためなのか。その階段は祭壇のある場所まで続いている。
「シルヴィア!シルヴィア目を覚ませ!」
軽く頬を叩きながら声を掛けると、しばらくして彼女の睫が震えた。ほっと息を吐いた泰成は、ぼんやりと目を開けたシルヴィアが助けられたことを理解したのを見て「立てるか?」と聞いた。
九死に一生を得たばかりの女性に、酷なようだが、この階段を彼女を抱き上げたまま上るのは不可能だ。何より上の様子が気になる。
深刻な表情の泰成に、シルヴィアは黙って頷いた。
本当は少し休んでいたいだろう彼女に、申し訳なく思いながらも、泰成はその華奢な手を引き階段を上り始める。
この場に彼女をおいていくことは出来ない。人柱を立てようとしたことからもわかるとおり、この町の海はいつ牙を向くかわからないのだ。
ゆっくりとした足取りで、シルヴィアを支えながら階段を上りきった泰成は、自分の方を向く銃口に苦笑いを浮かべた。
「いい加減にしたらどうだ?スミス」
「まったく、疫病神だな貴様は…もっと早くに殺しておくべきだった」
苦々しく愚痴るスミスが躊躇いもなく「撃て」と命じる。ちっと舌打ちをした泰成は、一緒に上がってきたシルヴィアを庇い身を屈めたけど。
続けざまに鳴り響く銃声に反して、痛みは感じられない。
こういう状況には覚えがある。
そっと顔をあげ、自分たちを庇って立ちふさがっている人影に、息を吐いた。