彼の上げたのは、首都で一・二を争う老舗ホテルだ。そこの支配人として、尽力するという。
おめでとうございます、と自分のことのように喜ぶ秀彬に微笑みを浮かべた彼は、懐に手を差し入れた。
「それで、町は海も落ち着き、列車も復旧いたしまして、遅れていた郵便物が一気に届いたのですが…その中に、これが」
差し出されたのは、泰成宛の手紙。
日本からのそれを受け取り、差出人に祖父の名を見つけて、泰成は少しだけ眉を寄せた。
「笠原様?」
「いや…。お手を取らせて、申し訳ない。ありがとう」
「いえ。お会いできて光栄でした」
腰を上げる支配人に、別れの挨拶をした泰成は、見送りを秀彬に任せて封を切る。
手紙の内容は察しがついていた。
帰国せよとの命が来て、もう三ヶ月だ。いい加減、痺れを切らせた祖父から、再度の帰国命令だろう。
自分を見上げる惺に笑いかけ、さてどうしたものかと思案する。
うやむやにして滞在を伸ばしているが、こうなれば何か、いい訳なり理由を考えなければならないだろう。この国に留まる理由を。
渋い顔で手紙を開いた泰成は、しだいに顔色をなくし、どさりとソファーに座り込んだ。
「泰成?」
「………」
何も言わない泰成の顔を、惺が覗き込んでいる。無言で差し出した手紙に目を通した惺は、そのまま戻ってきた秀彬に、手紙を渡した。
「大旦那様からの手紙ですか?」
不思議そうな顔で受け取り、目を通す秀彬の顔色もすうっと消えてしまう。手紙を置き、両手で顔を覆った秀彬を、惺が宥めるように抱きしめてくれていた。
泰成はもう一度、手紙に目を通す。
書かれていたのは――父の訃報。
繰り上げて跡継ぎとなった泰成に、至急の帰国命令。
「病弱な、人だったからな…」
ぼんやり呟き、泰成は天を見上げて目を閉じた。
生来病弱で、床に伏せっていることも多かった父。こんな事態を、想像しなかったわけじゃない。
祖父には消して逆らわない、おとなしい人だったが、それでも温かい優しい父親だった。
「私は…最後まで親不幸だったな」
船の状況にも拠るが、最初の帰国命令が来たときにすぐ帰っていれば、死に目に会えたかもしれないのに。
「とてもじゃないが、いい息子じゃなかった」
「泰成」
「父の死期を早めたのは私かもしれない。私は心配ばかりをかけて、最後まで…」
「やめなさい。父上のお心は、ご本人にしかわからないだろう?…お前に出来るのは、彼から学んだものをどれだけ生かせるかだ」
「…父、から…」
人として大切なもの、日本にいたときにはわからなかったことを、たくさん伝えられている気がする。
秀彬を大事にするよう、泰成に諭したのも父だった。
その秀彬は、惺の腕の中で泣きじゃくっている。
「すごく、すごくお優しい方だったんですっ…いつも笑っていらして…誰にも等しく声を掛けてくださる、方でっ…旦那さまは…ひ、ぅ」
生前の父を思い涙の止まらない秀彬を、惺が抱きしめ頭を撫でてくれている。その姿を見つめる泰成の視線に気付き、顔を上げた惺は、寂しげに微笑んだ。
「一刻も早く、帰国した方がいい」
「…ああ」
それは、わかっている。
仲睦まじかった両親のことだ。母がどれほど気落ちしているかと思うと、帰国は一日でも早い方がいいだろう。とくに笠原家では今頃、幼い秀彬を廃して、その父親を泰成につける相談がなされているはずだ。
それだけは、阻止しなければならない。
この努力家の少年の為にも。
……しかし。
「あんたは、どうする?」
尋ねる泰成に、驚いた秀彬が泣き顔を上げた。惺は秀彬の前髪をかき上げてやって、そうして泰成を見たが、静かに微笑んだまま首を振った。
「今はまだ、日本へ行くつもりはないよ」
「どうしてですか?!惺様は日本の方なのでしょう!どうして、そんな…っ」
珍しく我がままを言って、嫌だと訴える秀彬に、泰成が手を差し伸べた。
「おいで、秀彬」
惺の腕の中から泰成の元へやって来た秀彬は、何度も首を振って泣き続けている。
「や…っ!嫌です、泰成様っ…惺様を説得してください…一緒に、どうかっ」
「秀彬…」
震える肩を撫でてやりながら、惺を見つめる。彼はまた戻らなければならない孤独に、辛そうではあるけど。揺るがない意思をもって、泰成を見つめていた。
思い出されるのは、廃墟で一人眠っていた惺の姿。
まだ泰成は、彼の苦しみの百分の一も理解できていないと思うけど。でもこの短い間に、この美しい姿は泰成の心に刻み付けられてしまった。
それはきっと、秀彬も同じだろう
「惺…」
秀彬の華奢な身体を抱いたまま、惺に手を伸ばす。掴んでくれた細い指。ぎゅうっと握り締めた。
「私を、忘れないで欲しい」
「泰成」