【この空の下にB】 P:03


 転がった椅子。誰かが落した、何も書かれていない紙きれ。斜めになり埃を拭ってももらえない額縁。
 ただ静かに滅びを待つ、灰色の空間。

 闇の中に浮かぶ世界はあまりに静かで、さすがの泰成でも嫌な事ばかり考えてしまう。
 埃が邪魔だからとか、ここは寒いからとか、どうでもいい言葉が浮かんでは消えるけど。それらは全て、彼の為だなんて思いたくない、泰成の歪な我が侭。
 もうどんな言い訳をしても仕方ない。
 この人をもっと明るい場所に連れ出してしまいたい。こんな朽ち果てるのを待つだけの場所にいて欲しくない。

 彼の為に何かしたい、なんて。初めて感じる気持ちは、気恥ずかしく居心地の悪いものだ。
 理由なんか知らない。考えてもわからない。こんな、覚えのない感覚。
 ただ月明かりでも、人工の明かりでもいいから、彼を光の中へ連れ出したいと、そればかりが胸の中に溢れていた。

「あんたが今夜はしたくないと言うなら、抱きしめるだけで眠っても構わない。だがここはダメだ」
「ダメってお前な」
「こんな寂れた所に、あんたを一人残して立ち去るなんて、我慢できない」
「泰成…」
「理由なんかどうでもいい。私の勝手だ。ここに留まっていたいなら諦めてくれ。私は貴方を連れて行く」

 きっぱり言い切って、泰成は細い腕を掴んだまま、歩き出してしまう。
 男は泰成に引きずられながら、意外そうに意思の強い顔を見上げて。仕方なく後ろをついて歩き出した。
 
 
 
 
 
 実際、不思議な男だと思う。
 泰成は黙って隣を歩く、目が醒めるような美貌の男を見つめていた。

 不思議な現象に興味を引かれたのは、確かだ。
 もう最近では聞かなくなっているが、なによりあの、出会った夜。銃で撃たれても平然と立ち上がった、彼の姿。

 空想小説には、興味も知識もない泰成だが、やはりそういうことなのだろうか。
 撃たれた傷が塞がった、と。たとえ信じられなくても、そう考えるのが一番自然なんだろう。
 不老不死とか吸血鬼とか、そういう馴染みのない言葉が泰成の脳裏を行き過ぎる。
 こんな興味深い事態に遭遇するなら、くだらないなんて言わずに、一冊くらいその手の本も読んでおけば良かった。

 しかし今はそんなことより、泰成にとって自分自身のことこそが問題だった。
 行動も、感情も。自分のことなのに頭がついていかない。彼に向き合ったときの自分が、どうにも理解できなかった。