滑り込むように、音もさせずに心の奥まで入り込み、彼はいつの間にか泰成の心臓を、鷲掴みにしてしまった。
美しい黒瞳に射すくめられた時、泰成は初めて他人が、自分という人間を見つけてくれたような気がした。
笠原家の跡継ぎじゃない。
父の名も祖父の名も関係ない、泰成自身のこと。
それはもしかしたら、ずっと待ち望んでいたことかもしれないのに。いざ目の前にすると、どうしていいかわからない。
今まで感じたことのない、静かな動揺が泰成を侵していく。
彼は自分の何を知っているんだろう?
少なくとも泰成が知っているのは、彼の細い身体と、甘く響く喘ぎ声。
あとは底が見えないほど美しい、黒い瞳ぐらいだ。
掴んでいた腕はもうとっくに離していたが、彼は足を止めず、隣にいてくれる。
泰成は何歩か足を速め、彼の正面に回って、後ろ向きに歩き出した。
「なあ」
「…何だ」
「まだ名前を教えてくれないのか?」
にこりと屈託のない笑みを浮かべた泰成に、何を感じたのか男は、昨日までと少し違う感じの、苦い表情を浮かべた。
一度薄く唇を開き、閉じて。
思案する素振りを見せていたかと思うと、彼は軽く頭を横に振った。
「…僕の名を知って、それが何になると言うんだ」
「何って…呼びたいんだよ」
当たり前で、当然の答え。
泰成には考えるまでもない言葉だったのだが、彼はふいに足を止めて、驚きに目を見開いた。
予想もしていなかった、とでも言いたげな男の表情に、泰成の方こそ首を傾げてしまう。自分はそんな、おかしなことを言っただろうか。
同じように足を止め、じっと男を見つめる。素直な気持ちを口にした。
「あんたの名を呼びたいから、聞いてるんだ。名は、人から呼んでもらうために付けるものじゃないのか?」
「泰成…」
「そう、そうやって。あんたは私の名を呼んでくれるだろ。他の誰でもなく、私だけに向けられた言葉だ。なら私も、貴方の名前を呼びたい」
たまたま前を通り過ぎた人間じゃない。ここにいる、貴方を呼ぶ名前。
珍しく真摯な態度で言葉を重ねる泰成を前に、男は少し苦しげな表情を見せる。泰成にはわからない何かを躊躇って、葛藤しているように見える。
泰成は彼の答えを静かに待っていた。
しかし男の額に汗が浮かび、苦悶の表情になったところで、仕方ないと溜め息を吐く。
「もういい」
「………」
「そんなに苦しむほど迷うなら、言わなくてもいい。行こう」