貴方を困らせるのが目的じゃなかったんだと静かに囁いて、泰成はもう一度、彼の手を取った。
しかし彼は抗い、足を止めていて。
「どうした」
「…別に、大したことじゃない」
汗を浮かべて苦しむほどの葛藤があるくせに、彼は首を振って見せる。どうでもいいことだ、名前くらい、と。自分に言い聞かせているような、掠れた声。
泰成は強情な彼の様子に肩を竦めた。
「だから、もういいと言っただろ」
「煩い。指図するな」
「指図じゃないって…」
呆れる泰成の手を振り払い、男は再び歩き出す。
そのまま黙って泰成の横を通り過ぎ、今までよりずっと力強く、まるで何かに抗うような歩調で歩いていた男は、しばらく行って立ち止まった。
「…セイ、だ」
「セイ?」
微かな声を確かに受け取り、泰成もゆっくりと彼を追って歩き出す。
「セイ…どんな字を使って、セイと名付けられたんだ?」
「………」
「…セイ?」
再び、横に並んで。
セイの綺麗な顔を覗き込んだ泰成は、形のいい震える唇が、言葉を紡ぎだすのを待っていた。
「星の…」
「うん?」
「…星の、心と書いて…セイ、と」
泰成の傍を離れ、何かを振り切るように歩き出した、華奢な後ろ姿。僅かに首を傾げていた泰成は、ふと気付いて微笑んだ。
「惺、ね」
ようやく聞けた。彼の名前。
泰成は大股に惺を追いかけて、彼の手を取り口づける。
「惺?」
「…気安く呼ぶな」
「何を言ってる。呼ぶために教えてもらったんだぞ?呼ばなくてどうする」
嬉しそうな泰成の表情を目に止め、惺は後悔している顔で溜め息を吐いた。
そういう彼の嫌そうな顔は、昨日まで散々泰成が見せつけられてきたもの。思えば今夜は最初から、意外な表情ばかりを見せられていた。
どちらの惺も魅力的だけどな、とのん気に考えながら、泰成は繋いだ手を離さずに歩き出す。
「おい、手を離せ」
このまま歩いていけば、市街地へ入ってしまう。殺人鬼の横行する今は人通りも少なくなっているが、だからといって、誰もいないわけじゃない。
警邏中の警官にでも見つかったら何かと面倒だ。
嫌がる惺の手を握ったまま、やけに楽しそうな泰成は「じゃあ」と呟いた。
「もう少し、聞いてもいいか?」
「いい加減にしろ」
「手を離してやるから、それくらい構わないだろう?どうせあんたは、答えたくない問いかけには、答えないだろうし」
「お前…」
「な、惺?」