「そうだ。渡航の船上では初日から酷い船酔いで、起き上がることすら出来なかったよ。一切こちらの言葉がわからないものだから、部屋にいろと言ったら、本当に十日も部屋に閉じこもって、出てこなくなったんだ」
「可哀相なことを…」
「言ったろう?嫌いなんだよ、役に立たない奴は」
自分勝手な言葉を言い放って、溜め息をつく泰成のことを、少し睨むように惺が見上げた。
「お前にかかったら、大抵の人間は役に立たないんだろ」
「そうかもな。しかし秀彬は、その十日間で読み書きを覚えたんだ。自分一人の力でね。どうやら一日中船室に篭って、辞書を片っ端から写していたらしい」
「…真面目な子じゃないか」
「それだけがあれの取り柄だ。おとなしく従順で、生真面目。口うるさい父親の方とはあまり似ていない」
来栖(クルス)家の宿命に従い、泰成の父に仕えている秀彬の父親。忙しい父に成り代わり、笠原(カサハラ)家の一切を取り仕切っている家令(カレイ)は泰成にまでも厳しく、子供の頃から唯一自分の思い通りに行かない、目の上のたんこぶだった。
「我が侭なお前とは、少しも気が合いそうにないな」
「そうか?私は気に入っているんだがね」
「お前に気に入られると不幸になるのは、よくわかっている」
「惺は自分が私に気に入られていると、自覚してくれているわけか」
「煩い。まったく、可哀相に…こんな傲慢な男を主人として仰がなければならないとはね」
「仕方ないさ。それが来栖家に生まれた者の宿命だ」
「…宿命…」
ふっと表情が翳る。
惺の見せた切ない表情に、胸の辺りが狭くなるような、あの慣れない感覚が泰成の身体を走っていった。
「惺…」
「どういう、意味だ。そんな幼い子に、宿命なんて酷い言葉を使ってやるな」
青い顔をしている惺の言葉は、いつも通りの厳しい口調だった。しかし彼が何か、大きな葛藤に向き合っているのは明白だ。
惺の顔に浮かんでいる傷ついた表情は、警察署を出た後、裏通りで泰成に見せたのと同じものだった。
―――お前に僕を救うことは出来ない。
先ほど言われたことを思い出し、泰成は僅かに眉を寄せる。
惺に関することはなぜか、何もかもが上手くいかない。色んなことが面倒で、今まで泰成が放り出してきた感情を、やけに煽り立てる。
それでも離れたいとは思わないのだ。
どうすればこの傷ついた顔が、笑ってくれるだろうかと。せめていつも見せる不機嫌なものになってくれないかと、考えを巡らせた。