【この空の下にF】 P:03


 惺は自分の手にしている辞書に視線を落とし、ゆっくり捲った。秀彬がどんなに健気で一途な性格か、その辞書一冊でもわかる。
 いたるところに線を引き、僅かな空白に書き込みを綴って。使い込まれているその辞書は、強く上から押さえつけてもすぐ開いてしまうくらいだ。
 自分たちが聞いた、ドアの開閉する音。
 あれは秀彬が書き置きを残すために、戻ってきた音だったのだ。あの時すぐに秀彬を捕まえ、説得していればこんなことにはならなかったのに。
 眺めていた辞書を元の場所に戻し、惺は蒼白の泰成を見つめる。
 握り締めた書置きを、信じられないという顔で何度も何度も読んでいる泰成の、少し震えている手をとった。

「落ち着きなさい」
「あ…ああ」
「行き先に心当たりはないのか?犯行が止まっているとはいえ、日が落ちてからあの子が歩き回るには、危険すぎる街だ」

 動揺している心を静めるように、何度も息を吐いた泰成は、じっと目を閉じていたかと思うと、握ったままの書面を置いて踵を返した。

「泰成?」
「フロントへ行ってくる。誰か秀彬を見ているかもしれない」
「そうだな」
「首都の屋敷に連絡を入れているなら、やはりフロントを通しただろう。あの子が黙って全てを放り出すとは思えない」

 自分の荷物や、泰成の世話のことを、誰かに要請しているはずだ。あの子がそういう律儀な性格をしていることを、誰より泰成は知っている。

「泰成、警察にも知らせておけ」
「わかった」
「お前…着替えて行けよ?まさかこの期に及んで、自分で服も着られないなどと言わないだろうな」
「わかっている!」

 いつもボタンを留めることさえ、秀彬任せだった泰成だ。
 これまで悠然としているばかりだった泰成が、慌てて飛び出していく後ろ姿を、惺は苦笑いで見つめていた。
 
 
 
 
 
 フロントから一度は部屋へ戻った泰成だったが、腰を落ち着ける暇もなく、すぐにまた秀彬を探して街へ出た。
 その後夜が明け、泰成はようやく部屋へ戻ってきたが、状況は芳しいと言えない。

 やはり秀彬はフロントで電話を借り、首都にある仮住まいの屋敷へ連絡を入れていた。追って泰成も連絡してみたが、秀彬は自分は泰成に仕えられなくなったから、代わりに誰か来て欲しいと、それだけを言って電話を切ったのだという。