僕が首席を取ることは、けっこう重要な事案みたい。先生たちが必死になるくらいね。
それがわかってもナツは「気にするな」って言ってくれるんだよ。もし無理でも、自分が先生たちに話すからって。
ナツの気持ちは嬉しいけど、僕はちょっと頑張る気になってるんだ。だって今まで、内部のトップが首席取れなかったことないって聞いたんだもん。
そこまで言われたら、出来るだけのことやらなきゃでしょ。だから去年見せられた例の、トップ合格平均点に挑戦しようと思ってる。
合格のレベルには達してると思うよ。でもあの合計点を越えて、首席を取るには、それなりの努力が必要だから。僕は仕方なく、毎日のように藤崎先生のもとへ通って来てるんだ。
――苦手なんだもん、化学。
工学部のテストは理科目の選択が出来なくて、化学Tが必須になってる。
「相変わらず君は、解くのが遅いね」
ひょっこり僕の問題集を覗き込んで、藤崎先生が呟いた。
「そういう正誤問題は、考えずに埋めていかないと。時間が足りなくなるよ」
無茶を言う先生に、僕はむっとして顔を上げる。
「出来ればやってますよ」
「ようは覚えてるかどうかじゃないか。これくらい、見ればわかる範囲だろう?」
うわームカつく。藤崎先生って時々、ナツと同じこと言うんだから。
記憶力のいい理数系の人って、必ずそういうこと言うよね。見ればわかるとか。ナツなんか書くだけウザいとか言うんだよ。
僕がナツに教わらないのは、ムリしないで貰いたいのも理由だけど、こういう言動も理由のひとつ。
なのに藤崎先生も、ナツと一緒なんだから。伊藤先生だったらきっと、噛み砕くように教えてくれるのに。
「全ての遷移元素は周期表11〜17族のいずれかに属するか?…こんな簡単なこと、高三の問題集に載せるレベルじゃないだろ。遷移元素という文字を見れば、最初に浮かぶのは3〜11族じゃないか。こんな九九以下のこと載せて…どこの出版社なんだい?この問題集」
大きな瞳を不機嫌そうに細めて、藤崎先生は僕の問題集を取り上げると、勝手にペラペラめくり始める。
「十酸化四リンに水を加えて煮沸した化学反応式とか、リン酸カルシウムに硫酸を作用させた化学反応式とか…まだこんな基礎問題やってるのかい?アキくん、テストは来週だってわかってるんだろうね?」
「だから…苦手だって言ってるじゃないですか。その為に仕方なくここへ通ってるんでしょ。邪魔しないで下さいよっ」
苛立つ僕が問題集を奪い返して言うと、先生は急に真面目な顔をして、僕の座ってる椅子をくるって回した。
問題集を広げていた机に背を向けることになった僕は、横に立ってた先生に回りこまれて、首を傾げながら先生を見上げる。
間近になった藤崎先生の顔が、いつになく深刻で、思わずこんなきれいな顔してたっけ?とか余計なことを考えていた。
「せんせ…な、何?」
「…ならどうして、工学部に入ろうと思ったんだい?」
あんまりにも今さらな問いかけに、僕はそんなことかと脱力してしまう。
そうだね、嶺華では有名な話だけど、今年入ったばかりの藤崎先生が知らなくても仕方ない。
「ナツは建築に興味があるんです」
「…………」
「それも、都市建設。個別の建築物にも興味はあるみたいだけど、そういうんじゃなくて…都市全体の構造とか、生活環境の総合的な空間作りとか。嶺華大学の工学部には、建築都市学科があるから…」
子供の頃からナツは、地図を広げるのが好きだった。
行く予定の無い場所でも、交通アクセスとか文化施設の場所とかをチェックして、まるでそこへ行ったみたいに嬉しそうな顔してた。
おじい様のつてを頼んで、自ら大型ショッピングモールの建設現場へ足を運んだりするぐらい、好きなんだよ。
ナツの設計する街に住むのが、僕の夢。
説明する僕の言葉を、先生は黙って聞いてくれた。
「…わかった」
頷く藤崎先生は、でもいっそう深刻な目で僕を見つめるんだ。
「ナツくんの夢はよくわかったよ。彼のように広い視点と、立体的な物事の捉え方を出来る人間には向いてるだろうね。彼はきっと、その道で大きな功績を残していくようになるだろうな」
「はい」
自分を褒めてもらうより、ナツを褒めてもらう方が嬉しい。
思わず頬を緩める僕の手を、藤崎先生はびっくりするぐらい強い力で掴んだ。
「先生…?」
どうしてそんな、怖い顔してるの。
「なら、君は?」
「…は?」
「君の夢は?」
真正面からそう言われて、僕は返答に詰まってしまった。
ナツは地図を見るのが好きだけど、街を歩くときはそれを手にしない。
初めての街でも、言葉のわからない国でも、まるで長く住んでるみたいに平然と、ぶらぶら歩くんだ。