【その瞳に映るものB】 P:08


「大学に残らないかと誘われた時も、それで断ったくらいだから」
「英語のせい?」
「化学に英語は関係ないって思うだろ?でも現状、化学分野の論文は、英語で書くのが慣例になっているからね」
「それが先生になった理由?」
「そうだよ。教職に就いて文系の生徒をイジメる方が楽しそうだろう?英語が得意だなんていう、生意気な生徒をね」
 むにっと僕の頬を軽く引っ張って、笑ってる。
 平然と何を言うんだか。
 そういえば前に、突っかかってくる生徒とやり合うのが、教師になった理由だとか言ってたような。
 僕の頬から手を離した先生は、問題集をパラパラめくって、面白くなさそうにそれを放り出した。
「嶺華大学の文学部には、英文学科があるんじゃなかったかな」
「…そうですね」
「理科総合Aで受けられるだろう?」
「はい」
「それなら君のバカ高いプライドも、満足するんじゃないか?理Aなら自信もあるだろ?首席合格」
 言わんとしていることがわかって、僕は口を噤んだ。そんなこと、不可能だ。もう僕の受験選択は終わってる。

 進路希望を提出する時、ナツは僕に「どうする?」って聞いてくれた。
 一緒に工学部へ行くよって答えた後も、何度も何度も「いいのか?」って。
 しつこい!なんて言って、ナツを黙らせたけど。その時ナツは、本当に嬉しそうな顔をしてたんだ。
 ありがとって。
 じゃあまた一緒だなって。
 ……僕はナツを裏切りたくない。

 黙ってしまう僕の手を握って、先生はもう一度言う。
「君たちは、違う人間なんだ」
 そう……そうだけど。でもナツの夢を、僕も一緒に見ていたいんだ。本当に、そう思ってるんだ。
「同じ道を歩かなくても、ナツくんを応援することは出来るよ」
「でも、先生…」
「君たちが双子だということは、絶対に揺るがない事実じゃないか。…もう一度聞くけど、君の夢は何?」
 先生の手をぎゅうっと握り返して、僕は目を閉じた。

 言っても、いいのかな。
 僕自身でさえ、おぼろげな願望。
 
 
 
 幼馴染みの直人の保護者、惺(セイ)さんは翻訳家をしてる。難しいものが多い彼の訳書を、僕は何冊も読んでる。
 まったく違う文化の下で書かれたもの。人の仕草ひとつでも、国が違えば意味が変わる。それを丁寧に紹介する惺さんの訳書は、僕が考えていたものと全然違う世界を教えてくれた。
 翻訳という仕事はけして、読む人間の都合に準じる作業じゃないんだって。
「小さい頃…たくさん絵本を、読んでて」
「うん」
「両親が買うのは、海外で書かれた本を訳してあるものが多かったんだけど…その中に、どうしても納得のいかない本があったんです。絵がきれいで、色彩とかキャラクターの表情とかすごく好きなのに、どうしてもストーリーが中途半端に思えて…」
 素敵なストーリーだったんだ。それはとてもキレイなお話だった。
 でも幼い僕には、鮮烈な印象を与える絵と、うまく纏まったストーリーが、どうしても噛み合わないように思えたんだ。絵の持つ力を、物語の方が表現できていないような。そんな中途半端さが引っかかって仕方なかった。
 ……もちろん子供の僕じゃうまく説明できなかったから、ナツにわかってもらおうと必死に訴えて言葉にならなくて、泣いちゃったの、覚えてる。
 だからかな。僕ほど気にしていなかったのに、ナツはその本のこと覚えていてくれた。ずっと探して、見つけてくれて。
「中等部の頃、ナツが僕に原書を贈ってくれたんです」
 ネットで見つけたからと、わざわざ取り寄せてくれたナツ。すごく嬉しくて、絶対読むからって約束した。
「その頃はまだ、今ほど英語が出来なかったけど、辞書を開いて必死になって読んだんです」
 授業で使うような辞書じゃ載ってない単語もあったから、最後まで読むのは本当に大変だったんだけど。
 僕はこの時、ただ漠然と「なんか変だ」って思っていた子供の頃の自分に、向き合っていたんだ。
「それで、どうだった?原書は」
 聞いてくれる藤崎先生を見上げ、苦笑いを浮かべる。
「全然違うストーリーだった。…真逆に感じるくらい」

 日本人の子供に向けて訳されたその絵本は、作者の意図とはまったく違う物語に書き変えられていた。
 確かに絵本としては、少し残酷だった原作のストーリー。
 夢のない展開だと、子供たちへの影響を配慮したのかもしれない。それで子供に相応しい、夢に溢れた話に変えてしまったのかも。
 でも何度も読めば、子供にだってきっとわかったはずだと思うんだ。

 作者の意図。伝えたかったもの。
 現実を知る恐怖と、立ち向かう勇気。
 作者が懸命に説いているものを、キレイなだけのお話にすり替えるのは、翻訳なんかじゃない。

「衝撃を受けたのかい?」
 少し屈んだ先生の顔が近くなる。