【その瞳に映るものB】 P:09


 きっと自分がいま、迷子みたいな顔をしてると思ったけど。でももう、先生には情けない顔を見られすぎてて、隠したいと思わなくなってた。
「衝撃…っていうのかな。そんな大げさなものじゃなかったかもしれない。…ただ、ちょっと腹立たしかったかも」
「好き嫌い激しそうだしね、君」
「否定できませんね」
 苦く笑う僕の頭を、また先生が抱え込んだ。人に触れるのが好きなの?ナツみたいだね、先生。
 でも僕はそれが心地よくて、自分やナツよりずっと華奢な先生の身体に甘え、抱きしめた。
「翻訳家になりたいのかい?」
 尋ねてくれる、柔らかな声。
 僕は先生の白衣に頭を押し付けたまま、緩く首を振った。
「そういう具体的なことは、まだよくわからないんです」
 先生の言うように、あれが衝撃なのだとしたら、僕はあの時のショックを、どう言えばいいだろう?それは単に、自分が翻訳家になれば変わるものなのかな。
 全然考えてこなかったから、今ここで答えを出せといわれても、僕にはよくわからない。
 明確な答えを出せず、眉を寄せる僕の顔を覗きこんだ先生は、子供にするみたいにして、頭を撫でてくれた。
「よく出来ました」
「先生…」
「だったら君は、工学部の内部進学テストなんて、受けてる場合じゃないよ」
「でも僕はナツみたいに、ちゃんとしたビジョンを持ってないんです」
 ぼんやりとした願望は、夢という言葉にあまりにも相応しくないように思うんだ。だったらナツのそばにいる自分の方が、まだ現実的に想像できる。

 躊躇う僕を見て、先生が笑っていた。
「何も今、全ての答えを出す必要はないんだよ。大学へ行ってからも、ジタバタ悩めばいい」
「大学へ、行ってから?」
「そうだよ。…いいかい?僕は教師になるつもりで大学へ行ったわけじゃなかった。逆に伊藤先生はずっと教師になりたかったそうだが、念願の教師になっても研究を続けていらっしゃる」
 実は僕も伊藤先生の研究を手伝っているんだよ、と。先生は悪戯っぽく笑って教えてくれた。秘密だけどなって。
「それぞれに経緯は違うけど、僕と伊藤先生は今、どちらも嶺華で化学の先生をしてる。大学生の頃に会っていたら、仲良くは出来ていないと思うね」
「目指すものが、違うから?」
「まあね。大学生の頃の僕は、教師になりたがる奴なんて化学者じゃない、なんて生意気なことを言ってたんだ」
 笑ってしまう。想像つくよ、先生。
「でも、先生になった」
「就職に便利かと教職を取ってて、実習に行ったときかな…初めてそういう選択も悪くないって思ったの」
 教育実習のときって……じゃあ先生は、二年か三年前まで、全然教師になる気がなかったってこと?
 ぎゅっと先生の白衣を掴んで、呟いた。
「僕もまだ…決めなくていいのかな…」
「今から将来の夢を明確にして、それを掴める立場にいる、ナツくんの方が特殊なんだよ。彼がどんなに優秀か…双子なんだから、君は誰より知ってるんじゃないか?」
「うん…知ってる」
 ナツが努力家なのも、際立って計画性のある人間なのも。
 僕が世界で一番理解してる。
 そうだろ、なんて。藤崎先生は言ってくれたけど、僕は再び首を振った。
「でも、でも先生…もう間に合わないよ」
 受験科目の選択は、すでに締め切られてる。僕の進路は、もう工学部で決定してしまったんだ。
 肩を落とす僕の顔を上げさせて、先生は笑顔のまま僕の頬をきゅーっと両側へ引っ張った。
「ひぇ…ひぇんひぇい、いひゃい」
「何のために僕がいるんだい?」
「ひぇ?」
 つねる手を離した先生は、ひりひりする頬を今度は両手で優しく挟んだ。
「今から進路を変更するくらいのこと、ぼくが何とかしてあげるよ。ナツくん程じゃないけど、意外と得意なんだ。無理を通すのは」
「…腹黒いもんね、先生」
「そんなこと言うのは、この口かっ!」
 今度は口の中に指を突っ込まれて、痛いくらい口の端を広げられる。
「いひゃいいひゃい!いひゃいって!」
 意地悪な先生が、楽しそうに笑ってる。
 僕は痛いとか何とかより、先生の指が口の中に入ってる感覚がなんか生々しくて、心臓が跳ね上がっていた。
「ま、否定はしないけどね」
 僕から手を離してシンクへ向かった藤崎先生は、空になってた自分のマグカップを洗って、手を拭きながら僕を振り返る。
「自分のは自分で洗うように」
「…了解」
「じゃあぼくは、職員室でいろいろ画策してくるから。君はここで理Aの勉強でもしてなさい」
 足取りも軽く、先生は準備室を出て行った。ありがたいけど、理Aの教科書なんか持ってないよ先生。
 
 
 
 先生と話している間に、外が薄暗くなっていた。
 一人になってしまった化学準備室で、僕は携帯を取り出すと、ナツの名前を表示させる。
 発信を押そうとして、押せなくて。