シェーナには今日も、優しい音楽と人の声が溢れてる。
ぼんやりと見ず知らずの人たちの声に耳を傾けながら、オレはゆっくり息を吐き出した。
嶺華を飛び出して、本当にそのまま、帰るつもりだったんだけど。結局オレは門の前で立ち往生したんだ。
今の状態で、アキが帰ってくる部屋になんか、帰れない。
帰らなきゃいけないことは、わかってるよ。オレが帰ってこないなんてことになったら、きっとアキが大騒ぎする。
それっくらいなら、まだ自負しててもいいよな?
適当に諦めて帰らなきゃいけないのはわかってるんだ。でも、どうしてもまだ、家へ戻る気になれなくて。オレが逃げた先がこのカフェ「シェーナ」。
学校の割と近くにあるシェーナには、嶺華生も時々来るけど、今日はウチの制服姿が見当たらない。
明るくて清潔感のある照明。
広いフロアは開放感を演出しながら、同時に死角をたくさん作ってあって、人に会いたい時と会いたくない時を、選べるようにしてある。
いつもはカウンターに近い席に座るんだけど、今日ばかりは奥のテーブルで肘を突いていた。
オーナーもマスターも知ってるし、直人がバイトしてた時にここを知ったから、名前を知ってる人が何人も働いてる。
いつものオレは、そう言う人たちと話すのを楽しみにここへ来るんだけど……さすがに今日は、そんな気にもなれない。
オレの気持ちを察してか、今日はまだ誰も、声をかけて来ていなかった。そういう心遣いがあるのも、ここを気に入ってる理由のひとつ。
話しかけられたくないなら、こんな人の多いところへ来んなよって、思う?
でもこうして、シェーナの中、ざわめいた気配の中で息を潜めているのが気持ちいいんだ。ようやく息が出来たようにさえ思った。
溜め息の先にあるのは、オレンジとバニラのシロップに炭酸を注いである、イタリアンソーダ。
視線の先で氷が溶け、からんと水面を揺らせた。
「ナツ先輩」
低い声をかけられ、顔を上げたオレは、崩れるように微笑んだ。
「…タケル」
「座っていいか?」
毎度毎度、会うたび律儀に聞いてくれるタケル。オレは少しだけ首を傾ける。
「どうぞ」
「…どうも」
丸いテーブルに、四方向からデザインの違う4つの椅子。
背の高い逞しい体つきのタケルが、右隣に腰掛けるのを見つめる。じっと動きを追うオレの視線に気付いて、タケルは顔を上げた。
「…何?」
「うん…」
訝しげな表情。
オレが何を言いたいのかわかんねえって顔だ。でもオレは一人勝手に頷いて、溜め息を吐く。
うん。オレやっと、気付いた。
「待ってたのかも」
「え…?」
「オレきっと、お前に会いたくてここにいるんだ」
ようやく気付いたよ……家に帰りたくないオレが、この店を逃げ場に選んだ理由は、きっとお前だ。
勝手に呟くオレの言葉に、少し表情を緩めて。手を伸ばしたタケルは、オレの髪を優しく梳いてくれた。
この一ヶ月くらい、オレは頻繁にこの店で、タケルと会ってる。話してみるとすげえ気が合ってさ。
あの翌日かな、タケルがシェーナへ来たの。
借り物の制服を着て、嶺華へ不法侵入した挙げ句、声もかけられずにアキを見つめてたタケル。
全くサイズの合わない制服を「似合ってねえ」って言ったのが効いたのか、ここへ来る時はいつも私服だ。今日も黒っぽいTシャツに、ジーンズ穿いてる。
オレはまだ、タケルがどこの学生か知らない。
聞いたこともあるんだけど、いつもタケルは困ったように黙ってしまうから。
まあ……追求すればいいのかもしれないけど、オレこいつのそういう表情に弱くてさ。ついつい「もういいよ」って言って、今に至るんだ。
だってタケルとは音楽とか、スポーツとかの話してる方が、楽しいから。
タケルの精悍な顔とか、逞しい体つきからは想像できないけど、こいつは音楽に造詣が深くてさ。言葉少なに、色々教えてくれる。
オレの周りで音楽の話は、鬼門なんだよな。
アキも直人も、全然興味ねえの。
人が気に入ってるバンドの新譜手に入れて喜んでんのに、平気で「誰?」とか聞いてくるんだ。
この店にはずっとイタリアンジャズが流れてて、さすがにその辺はオレもタケルも知識なかったんだけど、マスターが教えてくれるから最近は二人して、けっこうそっちにも詳しくなってきた。
いいよな、イタリア。タケルと一緒に行けたら、楽しそうなのに。
「…な?」
「うん?」
「イタリア、行きてえなって。思ってさ」
唐突なオレの言葉が、理解できなかったんだろう。タケルは首を傾げて、僅かに眉を寄せた。
「今から、か?」
「ははは…さすがにそれはムリだろ」
「じゃあ夏休みとか?…行くのか?」
「…一緒に、行けたらいいな」