【その瞳に映るものC】 P:09


「やらないわよ〜。私の周りでしてくれるの、ナツくんだけ〜」
 ねえ?って、座りながらタケルに話しかける。
 タケルは自分のグラスをテーブルに置きながら、頷いていた。
「お前もやらねえの?」
「したことない」
「マジ?…女の子とか、母親とかさ」
「考えたこともない」
 むすっとしか顔で答えてる。そうなの、か?普通やらねえ?
 店の人がやるときは別だけどさ。隣に女性が座るときに椅子引くのって、当たり前だと思ってた。
「ナツくん、お母さんにもするの〜?」
「そういうのウルサイよ、ウチの母親」
「いいな〜素敵〜。私なんて旦那様にも、してもらったことないのに〜」
「え、マジで?!付き合ってるときとかでも?」
 うんうん頷いてる美沙さんの前で、タケルまで頷いてんだ。
 そうか普通しないんだ。……それは知らなかった。
「いいじゃな〜い、されたら嬉しいよ〜」
 オレは軽いカルチャーショックを受けながら、美沙さんの手元を見つめる。美沙さんは小さな籐かごを、テーブルに置いていた。
「ねえ美沙さん、何?それ」
 中にはなんか、妙に濃い色の、赤いビスコッティが入っるみたいだ。
「試作品なの〜試食して〜」
 ずいっと押し付けられて、オレとタケルは顔を見合わせる。
「…食べていいの?」
「食べて食べて〜」
「じゃあ、遠慮なく」
 ひとつ手にとって、籠ごとタケルに渡すと、タケルも「いただきます」と手を合わせ、ひとつ口へ運んだ。
 …………。
 …………。
 同時に食べたオレ達は、同時にそれを飲み込んで、慌てて自分たちのクラスを呷った。

 この店のものは全部美沙さんのレシピだし、ドルチェ類は手作りだって聞いてる。何食べても、本当に美味しいんだ。
 でも、これはちょっと。
「ナイ…これはナイよ美沙さん…」
 言いながらタケルを見ると、こっちもやっぱダメだったみたいで、口元押さえながら咳き込んでる。大パニックのオレたちを見ながら、美沙さんは笑って。
「あらあら〜…やっぱり〜」
 と小声で呟いた。
「やっぱりって!」
「新しい味のビスコッティを作りたいんだけど〜作ってみたら美味しくなくて〜」
「美沙さん…」
「お店の子たちもみんな逃げるの〜。でも捨てちゃうのは勿体無いし〜」
 ごめんなさ〜い、なんて。全然悪びれた様子もなく、美沙さんは笑ってる。
 いくら研究熱心でも、さすがにトマト味のビスコッティが甘いってのは、ちょっと難しいんじゃないの。
 咳き込み続けるタケルの背中をさすってやりながら、オレ自身も空になるまでソーダ飲んでると、オーダーもしていないのに誰かが新しいソーダを運んできてくれた。
 甘いアイスミルクティを頼んでいたタケルの前には、水のグラスを置いてくれる。タケルは確かめもせずに、それを飲み干していた。
「マスター…」
 オレたちを救ってくれた主を見上げて呟くと、その人は苦笑いを浮かべてるんだ。
「俺のオゴリだ。試作品じゃねえから、安心して飲めよ」
 なんだよ、その訳知り顔。もしかしてみんな犠牲になってんの?
 いつも通りギャルソンエプロン姿の、背の高いマスターは、じろりと美沙さんを見て溜め息をつく。
「そんなことばっかやってっと、常連客が来なくなるぜオーナー」
「だあって勿体無い〜」
「これは没収」
「え〜!ひど〜い!!」
 残りの入った籐かごは、マスターの手で引き取られていった。カウンターに戻るマスターのこと、店の人たちが苦笑いで迎えてる。どうやら客で犠牲になったのも、オレとタケルだけじゃないみたい。
「…大丈夫か?」
 ようやく咳が収まったタケルが顔を上げると、その目には涙まで浮かんでて。可哀相だとも思ったけど、いつもの余裕が窺える顔とはあまりに違っていて、ちょっとドキッとさせられる。
「もう、大丈夫だ。ありがとう」
「お、おう」
「…びっくりした」
 はあ〜っと大きな溜め息をつくタケルを見つめて、美沙さんはもう一度「ごめんね〜」と謝った。
「美沙さん…実はあんまり、反省してないでしょ」
 オレが言うと、イタズラがバレた子供みたいな顔で、肩を竦めるんだ。
「先に言ったら食べてくれないでしょ〜?あ〜あ、持って行かれちゃった〜」
 あんまりどろか、全然反省してねえな?
 意地悪なんだから〜なんて、マスターの方を向いて拗ねる美沙さんは、オレの方を振り返ると、もう気持ちを切り替えたみたいに、ふわりと笑ってくれる。
 笑いかけられた相手まで、表情を緩めたくなる微笑み。
 それ見てると、オレもこんな風に笑っていられたらいいのにって、思ってしまう。

「…美沙さんは、いつも笑ってんだね」
 全然うまく笑えなくて、オレは溜息をついた。
 美沙さんのように。アキみたいに。オレももっと、ちゃんと誰かのために……周囲を優しく出来る人間になりたかった。