【その瞳に映るものD】 P:06


 
 
 
 ナツが飛び出していって、どれくらい経ったんだろう。
 いつかのように藤崎先生の手に引かれ、誰もいない生徒会室のソファーに座った僕は、お茶を入れてくれる先生のことをぼんやり見ていた。
 先生はマグカップをふたつ持って戻ってきて。ひとつをソファーの前のテーブルに置いて、もうひとつを渡してくれる。
 中に入っているのは、ミルクティー。
 ふと何か、優しいものが心を満たしてくれるような感じがした。……覚えてるよ、先生。二度目だね。
「前も、そうだったよね」
「ん?」
「先生っていつもコーヒー飲んでるのに、いつだったか僕にミルクティー淹れてくれたから」
 あの時と同じだ。ナツに酷い言葉をぶつけてしまった僕を連れ出してくれたとき。化学準備室で淹れてくれたの、ミルクティーだった。
「弟の影響かな」
 くすっと笑う先生は、隣に座って僕を見上げてくれる。
「…弟が、いるんですか?」
「ああ。海外を飛び回る両親に代わって、僕が育てたようなものでね。年が離れてるけど、仲はいいよ」
「…そうなんだ」
「すごく甘党で、ミルクティーやココアが大好きなんだ。彼と大事な話をするときは決まってミルクティーを飲むから、そのせいかな」
 メガネを外して、それをテーブルに置いた先生は、大きな瞳に僕を映したまま、冷たい手で頬に触れてくれる。
「少しは落ち着いたかい?」
 先生の手を握って、僕は苦笑いを浮かべた。
「…また醜態を、晒しちゃいましたね」
「嬉しいけどね」
「そう?」
「君が他人に見せない顔を見せてくれるのは、けっこう嬉しいよ」
 ぎゅっと僕の手を握り返して、先生は自分のためのマグカップを手にした。ゆっくりカップを傾ける先生の喉元が上下するのを、じっと見つめる。
「…なんだい?」
「ねえ、先生…ナツはどうして、あんな酷いことを言ったのかな…」
 先生が僕を唆したなんて。そんなわけないって、いつものナツならわかってくれるはずなのに。
 先生はもう一度マグカップに口をつけてから、それをテーブルに戻した。
「こういう状況で、言いにくいんだけど…ナツくんの言うことは、あながち根拠のない話でもないんだよ」
 わけがわからず首を傾げる僕に笑いかけた先生は、繋いでいない方の手で僕が持っていたマグカップを取り上げると、テーブルに置いた。
 空いた方の手も、繋いでくれる。
「君が首席を取れるよう、手段を選ばないっていう話は、職員室で当たり前のように飛び交っていたよ」
「え……」
 初めて聞く話に、僕は驚きを隠せない。
 確かに嶺華では内部の成績優秀者が首席合格をして、大学の入学式に挨拶するのが伝統だけど……まさか先生たちが、そんなに拘ってるとは思わなかった。
「進路変更の話、会議には呼び出されたけど、案外あっさり通っただろう?君が必ず首席を取るといったら、先生方が急に色めき立ったの、覚えてるかい?」
「うん」
「僕が君に話したことは、僕の心からの言葉だけど。その結果が他の先生たちにとって都合のいいものだったのは、確かかな」
「それ…まさか、ナツ」
「ああ。知ってたんだろうね」
 先生に握ってもらってる手が、どんなに押さえようとしても震えてしまう。

 本当に、僕はどこまでバカなんだろう。
 あのナツが、ナツに限って。
 思い込みで人を責めたり、きつい言葉を使ったり、そんなことするはずがない。
 根拠のない話で、誰かを糾弾するなんてこと。あるはずないのに。

 先生は繋いでいた手を離すと、僕の首筋に腕を回して、引き寄せてくれた。抱き寄せられるまま、細い身体に縋りつく。
 擦り寄るとほのかに、甘い香りがするような気がした。先生の手がゆっくりと頭を撫でてくれている。
「頼りになって、優しい弟だね」
「…うん」
「でも、君を弱くする」
 そっと身体を押して僕を引き離した先生は、改めて僕の首に手を回すと、額同士をくっつけた。
 間近になった先生の、綺麗な顔。
「一緒にいることと依存することは、違うよ」
「せんせ…」
「君はいつまでそうやって、ナツくんばかりを追いかけるの。君のことを全部わかって、先回りして邪魔なものを遠ざけてくれるナツくんのそばは、気持ちいい?」
「…………」
 ゆっくり目を閉じて、僕は溜め息を吐くと、先生から離れた。まだ熱を持ってる自分の唇に触れる。
「ナツ…泣くの我慢してる」
「わかるのかい?そういうの」
 尋ねられて、僕は苦笑いを浮かべた。
「…どうなのかな…。さっきナツに、もうわからないって言われて、びっくりしたんだ。ナツは僕以上に僕のことを、わかってくれてたから」