【その瞳に映るものD】 P:08


 思わず拗ねた顔になる僕の額を、先生の指が軽く弾く。
「君の甘えには、年季が入ってるからね。ここ最近、君は居場所がないからってぼくの所へ逃げ込んでたけど。話すことはいつもナツくんのことだったよ。自覚していたかい?」
 むにっと頬をつねられて、僕は少しだけ唇を尖らせた。
「だって…ナツのいない世界なんて、考えられないんだよ」
 ああ、唇が熱いな。
 きっと泣くの、我慢してるんだね。ナツはいつも泣きたいとき、唇噛んで我慢するくせがあるから。
 ナツはもう気持ちも痛みも伝わらないって言ってたけど。
 そんなことないよ、ナツ。
 ちゃんと伝わってる。
 無意識に自分の唇を触ってると、先生が僕の顔を覗きこんだ。
「どうかしたのかい?唇」
「え?…ああ、熱くて」
「熱い?」
「ナツと僕は、お互いに痛みが伝わっちゃうんだけど…なんていうのかな…こう、同じように痛くなるんじゃなくて。ナツの痛いところが、熱っぽくなる感じ」
 ナツ、泣いていいんだよ。
 そんなに我慢してることない。
「きっと唇噛んで、泣くの我慢してるんだと思う」
 いつだって人のことばかり気にかけて、自分のことなんか後回しなんだから。
 早く泣いちゃいな。
 誰も責めたりしないよ。
 ここにはいないナツが苦しくないよう、祈る気持ちでいた僕の視界が、少し暗くなる。
「……?」
 顔を上げたら、いつの間にか先生が僕とテーブルの間に立ってて。
「せんせ?」
「ほら、そうやって。君はナツくんのことばっかりだ」
 なんだか先生の方こそ、拗ねたような顔をしていた。それがどうにも子供っぽくて可愛くて、僕は微笑んでしまう。
「どうしたの、先生?」
 なんでそんな可愛い顔、するの?
 首を傾げて尋ねると、先生はいきなり僕の膝を跨いで、座り込んだ。
「…な、なんですか?」
「どこが熱っぽいって?」
「え?っと…唇が…」
 何だろうと思いながら答える、僕の唇。先生がいきなりぺろっと舐めた。
「っ……!!!」
 綺麗な顔に浮かぶ、得意げな表情。
「どうしたんだい?」
「な、にやってんですか…」
 かあって顔が熱くなっていく。
 一瞬のうちに暗く落ち込む気持ちが吹き飛んでいた。ナツがどこかで泣いてるかもしれないっていうのに、視界が藤崎先生だけに塗り替えられてしまう。
 人がのこと混乱させておいて、なに平然としてんの!?
 前にも先生は、唐突に僕の額へ口付けたことがあった。あのときは確か、先生がナツより僕を気に入ってるって言ってくれたときだ。こうでもしないと、僕が信じないからって。
 ひょっとして、また?!
「今度は何の証明ですかっ」
「ん?証明…ああ、前は君を気に入ってるって言うのに、君が信じないからしたんだっけね」
「今日は?!」
「今日のは証明じゃないよ」
 にやにや笑う先生は、指先で僕の唇を辿ると、少し身体を近づける。
 人の膝の上なんて、大して安定もないから、自然と僕は先生の身体を支えてしまったんだけど……なんだか、先生はそれに満足したみたいだ。
 すごく嬉しそうに、微笑んでくれた。
 猫みたいに意地悪な顔が一番可愛いって思ってたのに、どうしよう。ものすごくドキドキしてしまって、思考が回らなくなってしまう。
「せ、んせ…」
「証明なんかじゃなくて。普通にキスしようとしてるんだけど?」
「…ええっ?!」
 驚く僕の唇に指をあて、先生は目を閉じて顔を寄せてくる。
 少し頭を傾けた先生の整った顔。睫が長いんだなって、見てられたのはそこまでだった。
 きゅうっと目を瞑った僕の、熱っぽい唇に柔らかい感触が押しあてられる。ちゅっちゅって、何度も吸い付く先生が息をつくように「目を開けなさい」って囁いた。
 言われたとおり瞼を上げると、そこには見たことのない、艶めかしい表情の先生がいて。舌を伸ばし、僕の唇を舐める。
 さっき急に舐められたみたいな、猫や犬がする感じのとは違う。
 もっと甘い行為。
「先生…」
「君の前にいるのは、誰?」
 僕の髪に指を差しいれ、かき回しながら掠れた声で尋ねられた。
 先生の顔が、少しずつ上気していく。
 それを見てたらどういうわけか、少しずつ気持ちが穏やかになってきた。
 ドキドキしてるよ。先生の身体が軽いとか、支える腰が細いとか、そういうのが全部リアルに伝わってくるけど。でも動揺は収まっていく気がしたんだ。
 ……なんか、似てる。
 心がかき乱されているとき、先生がそばにいてくれさえすれば、落ち着く気持ち。
 きっと、落ち着いてるんじゃないんだ。
 先生がそばにいてくれたら、僕はどんな自分も受け入れられるんだと思う。