焦ったり泣きたくなったりする情けない自分のこと、先生がいてくれれば認めてあげられる。
一度自分を認めてしまえば、視界が広がるんだ。自分の立ち位置がわかって、進む方向が見えてくる。
進路を決めた、あの時もそうだった。
先生が僕を気に入ってるって、そう言ってくれるからかな。自分が先生にとって特別な生徒だって、自惚れてるから?
「…アキくん、だれ?」
濡れた声でもう一度聞かれた。
「ふじさき、いちる、せんせ」
ゆっくり区切って答えながら、今度は僕から先生の唇を塞ぐ。
ねえ先生、自惚れてるのかな。
こんなことするのは、僕だからじゃないの?先生の唇が開く気配を感じて、遠慮なく舌を差し入れた。
「ん…ん」
先生の甘い声が零れてくる。
当たり前のように、先生の口の中で僕たちは、舌先を触れ合わせた。僕が舌を入れるの待ってたみたいに、先生が誘うんだ。
こうして誰かと唇を重ねるの、それなりに興味も機会もあったから、初めてじゃないけど。今までの経験なんか全部吹っ飛ぶくらいに、先生の唇が甘い。
髪をかき回しながら、僕の頭を引き寄せようとする、先生の細いくせに力強い指とか、息を継ぐたびに零れる僅かな声。
「ん…ふ、ぁ…んんっ」
――やばい、溺れる。
僕がそうっと先生の身体を撫で上げ、引き寄せようとすると、先生は口付けてきたのと同じ唐突さで、僕を引き離した。
「え、ちょっと」
唖然とする僕が不満を漏らすと、先生は見せ付けるように、濡れた唇を指先で拭って、でも。
「ここは学校だよ。少しは弁えなさい」
なんて、ひどいことを言う。
「…先生がそれ言うんですか…?」
始めたのは先生じゃない。
僕が拗ねてるのを見て、先生は意地悪く笑いながら、僕の唇を舐めた。
最初にされた軽いものとは違う、べったりと僕の唇を舐めてくそれは、まるでキスの続きみたいに。
「どうかな」
「…何が」
僕の濡れた唇を、先生が拭ってくれる。
「まだ熱いかい?」
いまさらなことを言われて、脱力気味に溜め息をついた。
「わかんないですよ…こんなことされて、わかるはずないじゃないですか」
元から、ナツが唇噛んでるくらいじゃ、そうそう伝わってこないんだから。
さっきみたいに意識を集中していられるならともかく、こんなことされて些細な熱さまで、わかるはずないでしょ。
痛みの伝わる唇なんかより、僕の身体の方がよっぽど熱いよ。
答えを聞いた先生は、勝ち誇ったように笑っていた。
「それは残念だね?大事な弟のことがわからなくて」
まるで子供が取り合うおもちゃを勝ち取ったみたいな、無邪気ささえ滲む嬉しそうな顔。
僕は少しだけ唇を尖らせた。
「誰のせいですか」
「ぼくのせいだよ。何か問題が?」
「…………アリマセン」
良く出来ました、と頭を撫でてくれた先生はそのまま、さっきまでの姿が嘘のように、いつも通りの顔で僕の膝から降りてしまう。
翻弄されるばっかりの僕は、嫌がらせに盛大な溜め息をついた。
「なんだい?」
「生徒のことからかって、楽しい?」
何も言わない藤崎先生。
あんな濃厚なキスしたくせに、もう先生の顔するんだから。その態度はまるでもて遊ばれてるみたいで、悔しい。
いじける僕に先生はいつもの、猫みたいに可愛い、意地悪な顔を見せる。
「心外だな。ぼくには生徒をからかって楽しむような趣味はないよ」
「じゃあ、何なんですかコレ」
「生徒をからかって遊ぶような趣味はないけど、君のことをからかって遊ぶのは、すでに趣味だね」
しれっと言い放つんだ。
なんだかやけに力が抜けてしまって、背もたれにぐったりと身体を預けて目を閉じる僕に、先生の笑う声が聞こえた。
「なんなんですか、もう…」
「いや、君があんまりにも目の前のことしか見えてないから、面白くて」
酷い言い様だよ。
僕の気持ちを攫うのも、視界を自分だけで埋めちゃうのも、いつだって先生じゃないか。
唐突に予想外の行動起して、心底楽しそうに僕を翻弄するんだから。
先生が向かいのテーブルに座ると、狭いソファーとテーブルの間で、僕と先生の膝がぶつかって、触れ合う。
すりっとそこをすり寄せて、先生は指先で僕の顎を上げさせた。
「覚悟、決めたら」
「…なんの?」
「本当の意味でナツくんを追う覚悟。出来のいい弟に頼らず、支えられるくらいの人間になる覚悟」
唇を噛んで、先生を見つめる。出来たらいいとは思うけど、そんな簡単なことじゃないでしょ。
「…覚悟するだけなら、出来るけど」
「努力しなきゃ、意味ないよ」
「じゃあ、僕になら出来るって言ってよ」
甘えて言うと、先生は僕の顔を撫で、口の端を吊り上げる。