呆然と立ち竦む僕の前から、ナツが消えて。どれくらいだろう。
どんどん力が抜けてその場に座り込んでしまう僕から、藤崎先生は手を離す。
「ナツが…行っちゃった…」
本当に泣きそうだよ。あんなに必死に、行かないでって言ったのに。
ナツ、笑ってた。
すごい楽しそうに笑って、僕の前からいなくなった。
呆然とする僕の目の前に、華奢な手が差し出される。さっきは強い力で、ナツから僕を引き離してた、藤崎先生の手。
そのことが信じられないくらい、ほっそりとした色の白い手だ。
「制服が汚れるから、おいで」
言われて、首を振る。
制服とかもう、どうでもいい。
「先生は、全部知ってるの…?」
ナツが何を考えてるか。僕の知らないことを全部、知ってるの?ナツが帰ってこなくなったのって、先生のところに泊まったって言う日の後からだよね。
縋るように見上げる僕の頭を撫で、先生は困った顔をして僕を見下ろしてる。
「何もかも知ってるわけじゃないけど、君よりは知ってるかな」
「じゃあ、教えてよ」
「…待っててあげたら?」
同じ問答は、もう何度目だろう。
でも僕は首を振って、立ち上がった。
先生まで僕を遠ざけるの?甘えさせてくれるって言ったのに。ナツより僕を気に入ってるって、そう言ったじゃないか。
細い身体をぎゅうっと抱きしめる。先生の手が背中に回るのを感じて、僕は先生の目を覗き込んだ。
「先生が、好きだよ」
「…またそれ?」
「どんなに意地悪でも、性格悪くても、先生は僕に必要な人だ」
「あのねえ…」
それで口説いてるつもりなのかい?って先生は不機嫌そうにしてるけど。構わずに細い顎を捕らえて、唇を重ねた。
柔らかい唇に、今日だけはドキドキ出来ない。これを手段にしちゃいけないって、わかってるのに。
そっと離して、先生の前髪を梳いた。
「…教えて」
「アキくん」
「お願い、ナツのことを教えて」
必死に言う僕に、先生は溜め息をついて。どん、っと強い力でぼくのことを突き放した。
「キスひとつで、ぼくに言うこと聞かせようって?」
「そうじゃないけど、でもっ」
「どこが違うんだい、そういうことだろ?君を気に入ってるぼくなら、口を割ると思ってこんなことしたんじゃないか」
「先生…」
「ほんとに君は、姑息なことが得意だね。ナツくんも随分と巧妙な手を使うけど、君ほどじゃないな」
眼鏡越しの視線が冷たい。先生の苛立ちがひやりと背筋を撫でる。
それでも僕はなりふり構っていられなかった。もう先生しか教えてくれる人はいないんだ。
僕の表情に目を止めた先生は、苛立たしそうにソファーへ腰を下ろした。顔を上げた先生が、きつい目で僕を睨んでる。
「何が聞きたいの」
「ごめん…でも」
「さっさと言いなさい」
ぴしゃりと撥ね付けるような言葉。
じわっと胸が痛くなったけど、僕は軽く頭を振って先生のそばへ近づいた。
「…ナツは、何をしてるの?」
「一言では言えないな」
「先生っ」
「彼のやってることは、多岐に渡ってるからね。僕が知ってるのは、乗馬とピアノくらいだ」
「乗馬と…ピアノ?」
あんまりにも意外で、首を傾げる僕のこと。見つめる先生は、口の端を吊り上げて笑っていた。
「取り返してるんだろ」
「え…?」
「幼い頃、君に奪われたもの。取り返してるんじゃない?本人に聞いたわけじゃないけどね」
どんどん力が抜けて、目の前が暗くなっていく。
僕がナツから奪ったもの。
僕のせいで、ナツが諦めたもの。
――ナツは本気で、僕から離れるつもりなんだ。
じわっと溢れてきた涙が、見つめる先の床に落ちていく。
瞳の奥に、小さなナツの背中が見えた気がした。
いつも僕を守っていてくれた、幼い頃のナツの背中。大人と僕の間に立って、いつも僕のワガママを庇ってくれた。
それがふうっと消えていく。
力強くて優しいナツが、僕の前からいなくなってしまう。
行かないでって、叫ぶことすら出来なくて。身をかがめる僕は、座り込んで床についた手を、痛いくらい握り締めていた。
「…なに泣いてるんだい」
呆れた声で先生に言われても、首を振ることしか出来ない。
いやだ。
そんなの、絶対にイヤだ。
ナツがいなくなるなんて耐えられない。
「…全部、いらない」
「アキくん?」
「何にもいらない…戻りたいんだ…」
こんなに辛いとは思わなかった。ナツと離れること。
世界にたった一人、一緒に生まれた人を失うのが、これほど寂しくて、痛いことだったなんて。
こういうのを孤独っていうんだよね。
僕は今まで、本当に何も知らずに生きてきた。こんな痛い気持ち、初めてだ。
わかんないよ、ナツ。
どうして?どうして行っちゃうの?