促されるまま連れて行かれたのは、初めて見るマンション。
どこだろう?って思ったけど、気軽にそんなことを尋ねられる雰囲気じゃない。
沈黙を守る先生と一緒にエレベーターへ乗り込み、昇っていく。
先生が立ち止まったドアの横には「FUJISAKI」って表札がかかっていた。
ポケットから出した鍵をドアに通してるのを見て、ようやくここは先生の家なんだって理解する。
「…先生、こんな近くに住んでるの?」
歩いてほんの10分くらいだったから。
「嶺華に仕事が決まってから、引っ越して来たんだよ。さっさと入りなさい」
押し込まれるように中へ入り、促されるまま玄関を上がる。
廊下を抜けてすぐの明るいリビング。
先生はここで待ってろ、と呟き、僕を放置して、慌しく部屋を右往左往し始めた。
「あの…センセ?」
「うるさい」
「…すいません…」
どうしていたらいいのかわからず、座ることも移動することも出来ずに、僕は立ち竦んだまま、自分の放置されたリビングを眺める。
音楽家の両親を持つ先生の家らしく、リビングの端にはアップライトのピアノが置いてあった。椅子の上に楽譜が置いてあるから、誰か弾くんだろうけど……先生は弾けないって言ってたはずだから。いつか聞いた弟さんのかな?
僕が首を傾げてる間も、先生は足を止めなくて。わずらわしげに着ていた薄手のジャケットを放り出し、ボストンバッグに荷物を詰めていく。
何、先生……どっか行くの?
聞きたいけど、さっきウルサイと言われたばかりの僕は声に出来ない。
そうこうしているうち、誰もいないはずの玄関で、ドアの開く音がした。
気にする素振りもない先生を横目で見ながら、居心地悪くてそっちを向いてみる。
入ってきたのは先生とはあんまり似てない顔立ちの、すごく背の高い、制服姿の少年。同い年ぐらいかな。
まともに目が合ってしまって僕も驚いたけど、向こうもびっくりした顔で立ち止まってしまう。
「えっと…あの、こんにちは。お邪魔してます」
「…どうも」
半袖シャツに黒いパンツ姿は、見たことない制服だ。例の、先生の弟なのかな?
戸惑う僕たちに気付き、リビングに戻ってきた先生は、もの問いたげな彼の表情を無視して、不機嫌なまま「おかえり」と呟いた。
「兄貴、あの」
「ナツくんじゃないよ」
「わかってるよ…アキさんの方だろ?ナツ先輩の双子の…」
驚いた。ナツを知ってるの?
自分の名前を迷いなく口にされて、おろおろする僕を、先生が振り返る。
「弟の武琉(タケル)」
「…初めまして、笠原千秋(カサハラチアキ)です」
いきなり紹介されて、何を言えばいいかわからなかったけど。とにかく初対面だと思ったから、名乗って頭を下げてみる。
「藤崎武琉です」
低いけどはっきりした声で名乗って、頭を下げてくれる武琉くん。
向こうも戸惑ってるんだろう。武琉くんはそのまま、先生と僕を交互に見ていた。
「なあ、兄貴。先輩は?」
「ナツくんには会わせてあげるから、お前はさっさと着替えなさい」
「ちょっと、兄貴?」
「忙しいんだよ。邪魔するな」
言い置いて、先生はどこか違う部屋に消えていった。
取り残された僕は、曖昧に笑って武琉くんと顔を見合わせたんだけど。ふと何かに気付いた武琉くんが、僕に手を伸ばしてきたんだ。
「え、なに?」
思わず避けてしまったけど、気にした風もなく、差し出した手を引っ込めて。武琉くんは僕をじっと見つめる。
「それ」
「え?」
「頬、赤くなってますけど。もしかして兄貴に叩かれました?」
「あ…えっと、うん。…そうなんだ」
まだじんじん痛む頬に、手をあてた僕が正直に言うと、武琉くんは溜め息をついて背を向け、鞄をダイニングテーブルに置いた。
そうして、チェストから取り出したタオルを水に浸して固く絞ると、持ってきてくれる。
「冷やした方がいいですよ。明日、腫れると思うから」
「あ、ありがとう」
渡されたタオルを顔に当てると、ひんやり気持ち良かった。
「すいません、暴力的な兄貴で」
「…武琉くんも叩かれたことがあるの?」
「しょっちゅうですよ。殴られたり蹴られたり。ああ見えて兄貴は、すぐ手が出るタイプだから」
苦笑いを浮かべる武琉くんの、穏やかな瞳の色。すごく先生に似てる。外見は全然違うけど、やっぱり兄弟なんだ。
「ねえ、ナツを知ってるの?」
「はい」
「先輩って呼んでるけど、嶺華生じゃないよね?」
制服違うし、さっき持ってた鞄も見たことない校章が入ってた。尋ねる僕に、武琉くんはちょっと困った顔をする。
「えっと…俺は公立の中学です」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「えええっ!中学生なの?!何年生?!」
「二年です…何か、すいません」