「君だって本当は、あんな風になりたいなんて、思ってはいないはずだ。よく考えてごらん?」
「そんなことないっ!僕は本当に…」
「あんな人気者になりたい?誰からも好かれて、みんなの為に駆け回るような」
「それ…は…」
答えられなくて、口を噤んだ。
ずっとナツみたいになりたいと思ってたけど、そうやって改めて聞かれると、何かが違う気がした。
ナツはいつも人に囲まれてる。
たくさんの人の中で笑ってるけど、ちゃんと一人一人とも向き合える。そんなナツの姿に、僕はずっと憧れていたけど。
……ナツと同じようにしたいのかと問われたら、首を振るしかない。
だって僕は、そんなたくさんのもの、一度に引き受けたり出来ない。出来ないし、したいとも思わない。
そんな時間があったら、何人かの大切な人たちを、もっと深く知りたいんだ。
「君は好きな人間しか受け入れない」
きっぱり言われて、先生を見つめた。返せる言葉が見つからない。
僕の視線の先、先生は少し考える素振りを見せて、黙っていたけど。僕の手を握ったまま立ち上がる。
「おいで」
導かれるまま、リビングを横切って。連れて行かれた先が先生の部屋なのは、すぐにわかった。
きれいに片付いた部屋。
デスクサイドの本棚に並んだ背表紙に、化学とか教育とかいう文字が見えたから。
「先生の、部屋?」
尋ねる言葉に頷いて、僕を自分のベッドへ座らせる。わけもわからず腰を下ろしたら、初めてキスした時みたいに、僕の膝を跨いで。僕が座ってる横に、膝をついた。
「…先生」
「ぼくはナツくんの様な博愛主義者じゃない。他人の幸せなんかどうでもいいんだ」
「…相変わらず、教師らしくないね」
「そう?生徒のことは、ちゃんと可愛いと思ってるよ。でも、ぼくが欲しいものじゃない」
「欲しい、もの…」
「ああ。…ぼくが欲しいのは、お互いの独占欲でぐちゃぐちゃになるくらい、溶け合える相手だよ」
先生は僕の髪に指を差し入れて、手触りを楽しむみたいに、ゆっくりかき回した。
「君を見つけたとき、ぼくは必ず君を手に入れようと思ったんだ。君の独占欲を、ぼくのものにしようって」
「あ…」
「逃げたかったら今のうちに逃げなさい」
「ど、して…ぼくを…」
先生はしばらく黙って、僕の髪にふれていたかと思うと、急に力を入れて僕の肩を押した。
「…武琉とナツくんが出会ったのは、ほんの偶然だけど。ぼくと君が出会ったのは、偶然じゃないんだ」
「え…?」
どういう、こと?
「去年の、今くらいだった。大学の恩師から紹介状を貰って、ぼくは嶺華の教員適正試験を受けに行ったんだ」
押し倒された僕を見下ろす先生は、面倒そうにメガネを外すと、身体を伸ばしてそれをベッドサイドへ置いた。
そのまま僕の上に、座ってしまう。
「たった一人の採用枠に、20人もの希望者がいてね…しかもぼく以外は全員、嶺華の卒業生。試験が始まる前から、どうせ受からないと思ったな」
くすって、その時のことを思い出してるのか、先生が笑う。
懐かしげな表情だった。
「受けるだけ無駄だって、思ってね。金持ち学校で有名な、嶺華の見学でもして帰ろうって、試験会場を抜け出したんだ。…広い敷地を歩いていたぼくは、人の声に足を止めた。見えたのは、生徒の姿。クラブ活動の自粛期間だって聞いていたのにね」
嶺華の教員適正試験……採用試験なんだけど、それは毎年あるわけじゃない。
嶺華の先生は一度入職されると、教職を辞るまで嶺華に勤められる方が、ほとんどだ。だから欠員の予定が出たとき、初めて募集がかかる。
一応定年の規定はあるから、化学教諭の中で最年長の伊藤先生が、来年定年退職されることになった。そのせいで、去年は化学教員の募集がかかったんだ。
……そういえば、そんなことあったな。
夏休みの始め、教員適正試験があるから登校禁止になってたけど、同時期に後期の予算会議があったから。
出席しなきゃいけないのは会長のナツと会計だけだったけど、二人に付き合って、学校行った日だ。
そこまで思い出して、僕はその日の自分の行動に思い当たった。
「思い出した?」
「…見てたんですね」
「見てたんだよね」
くすくす笑う先生が、身を屈め額に口付けてくれる。
ああ、見られちゃったんだ。
覚えてるよ。
あの日、僕は生徒会室を抜け出して、人に会っていた。
誰にも知られないよう、ナツにさえ知らせず。人気のない校舎裏へ行ったのは、呼び出し状を貰ったから。
ただし、それを受け取るはずだったのはナツなんだ。
当時ひとつ年上の三年生だった送り主。
とりあえず卒業まででいいから付き合ってくれ、なんて勝手なことを言う男は、僕とナツの見分けもつかなかった。