それよりもう少し抱きしめさせて、と。甘えた声で言いながら、アキはぼくの身体を腕の中へ閉じ込めた。
「ナツも、先生も。大好き」
我慢を強いているアキの声は掠れているのに、それは確かに喜びに満ちている。
ぼくはどっちかっていうと、昔から人を泣かせて喜んでいたタイプなのに。今はアキが幸せだということが、本当に嬉しい。
君が大事なものを取り戻せて良かった。
背中を抱きしめ、目を閉じる。
耳に届くのは、ぼくの名前を呼ぶアキ声と、切ないピアノの旋律。
あと何分?もう残りはどれくらい?
全然時間が足りない。もっと触れ合っていたいのに。君が自分の中に封じ込めている熱を、受け止めてあげたいのに。
「…もう行かないと」
「ん…」
名残惜しげにぼくの額へ口付けたアキは、そっと身体を押して鞄を手に取った。
「ごめんね。いつもは先生が家の中へ入るまで見てるけど、今日はそんなことしたら引き止めちゃいそうだから。先に行くね」
「…わかった」
「連絡待ってる」
最後のギリギリまで、ぼくと手を繋いでいたアキが、静かに階段を下りていく。
壁に背中を預けたまま、ずるずるしゃがみこんで。しばらく動けそうにない。
彼の独占欲を独り占めしようと、画策していたのはぼくの方なのに。アキを手に入れて思い知るのは、自分がとっくに、あの一年前の夏の日から、捕われているという事実だった。
両親の帰って来た賑やかな食卓をそっと離れ、ぼくはシンクに水を出しながら携帯を見つめる。
背中の向こうで楽しげな両親の声がしていた。ぶすっと黙ってる武琉。ナツくんに言われなきゃ、今日は家に帰っていなかったかもしれない。
昨日ナツくんから「ちゃんと帰って、メシでも作って親御さんを待ってろ」と言われたという武琉は、素直に従って夕飯を用意していた。
そんなもてなし、予想していなかったんだろう。父さんも母さんも嬉しそうだ。あの調子ならきっと、もうすぐ演奏会になってしまう。
開いた携帯の画面に、アキの名前。メールをくれたのは30分ほど前だ。
着信には気付いてたんだけど、席を立つタイミングがなくて、正直苛々してた。
『お父さんたちは元気だった?僕は先生のことで頭が一杯だよ。夕飯、何食べたか覚えてない。
返信はいいから、あんまりワイン飲み過ぎないでね。ちゃんと僕のこと思い出してから寝てよ?』
可愛いメールの文面に、苦笑いが浮かんでしまう。もう遅いよアキ。アルコールならとっくに回ってる。
ヨーロッパツアーを終えて帰って来た両親は、いつものように高いワインを大量に抱えて帰ってきていた。
「一琉、どうしたの?」
声を掛けられて、携帯を閉じる。確かに今夜は、返信を打つ暇もなさそうだ。
「ビールを出そうと思って。久しぶりだろ日本のビール」
「ドイツで飲み飽きたよ、ビールは」
「でもこれ、珍しいんだよ。お土産で貰ったんだけど、北海道の地ビールなんだ」
前にナツくんに貰ったお土産の残りを出してやると、興味がわいたのか、二人は喜んで手を伸ばしてくれる。
うーん、恋愛は偉大だな。気に入ってる酒を振舞うなんて、普段なら絶対しないのに。今の僕はやけに自分の幸せを、人にも分けてやりたい気分なんだ。
藤崎家は音楽一家であると同時に、相当な酒好き一家。
音楽の才のは少しも受け継いでいないのに、こっちの方ではぼくにも、藤崎家の血が流れているらしい。
「うん…旨いな」
「あらホントに。地ビールって言うと、軽いイメージがあるのに、これはコクがあって美味しいわね。誰にいただいたの?」
母さんの問いかけに、ちらりと武琉の顔を見る。何をわだかまっているのか知らないが、相変わらず無言で、自分の作った料理に箸をつけていた。
「…職場の、友人」
「嶺華だったかしら?学校」
「そうだよ。この近く」
「どんなところなんだい?お金持ちのご子息が多いと聞いたが」
「そうだね。毎度毎度、驚かされるよ。授業料なんて公立の十倍以上するし、制服も公立とは比べ物にならないくらい高いし…あと、寄付金の制度なんかもあるから」
ぼくの言葉に母さんは首を傾げた。
「…高校って、公立でも授業料がいるの?普通はどれくらい?」
苦笑いを浮かべるしかない。世間の常識に疎い両親。彼らはたぶん、息子の通う公立中学に学食がないことすら知らない。
もちろん彼が、毎朝自分で弁当を詰めていることも。
ぼくの両親は、正しく芸術家だ。
日常の瑣末なことには捕われず、全身全霊で至上の一音を追いかけ、楽譜に身を沈めている。これでは武琉が拗ねるのも、仕方ないかもしれない。
彼らは音楽家ではなく、芸術家。
人の心を震わせることが仕事だ。
音楽活動に関しても、所属している事務所にほとんどのことを任せていると聞く。