『タケル?』
「全然、大丈夫だから。兄貴も酔っ払ってるだけなんだ。帰って来た親と一緒に、ずっと飲んでてさ。…アキさんに心配しないよう、伝えといて」
『…………』
「それよりアンタ、明日から海外行くんだろ?早く寝た方がいいんじゃねえの」
千夏はちゃんと俺に、自分のスケジュールを教えてくれる。
会いたいと思ってる気持ち、会えないでいる状況、全部説明してくれるんだ。
ほんと言うと、千夏の話は難しくて、説明されてもわからないときがある。帰ってからネットで調べたり、兄貴に聞いたりするんだけど。
知れば知るほど、自分と千夏には壁があるみたいに思えて辛かった。
……大人なんだよな。
まだ高校生だけど、世間じゃ誰も千夏を子供扱いしてない。
あんな風になれたら、俺も一人で生きられるんだろうか?
『…そっか』
「うん」
ちょっと不満そうな声だ。ごめんな。
話そうにもあまりにくだらなくて、千夏みたいなすごい人には言えやしないんだ。
電話の向こうで、小さくコツコツと何かを叩く音がする。あれは千夏が、考え事をしているときのクセ。
『なあ、タケル』
名前を呼ばれ、思わず身体を固くする。千夏はめちゃくちゃ勘のいいから、何かバレるようなこと言ったかな。
「平気だって」
先回りして言うけど、俺の先走った言葉は、千夏に笑われただけ。
『それはわかった』
「う、うん」
『わかったから、別の話』
「え?」
別の話?……何、言うんだ?
『お前さあ、まだ寝ないのかよ?』
……なんだ、そんな話か。
緊張していた俺は肩の力を抜いて、千夏にもらったブレスに触れた。気持ちを落ち着けたいとき、これに触るのはもう、クセみたいになってる。
「いや…もう寝るよ」
『ふうん…じゃあ、明日何時に起きる?』
「明日?明日は…えっと」
部屋の時計を見上げる。もう1時半だ。
兄貴は母さんから、買い物に付き合って欲しいとか言われてたけど、俺にはそんなものに付き合うつもりないし。千夏がいなきゃ、夏休みなんて退屈なもの。
「9時くらいかな…」
『遅っせーよ』
「だって…夏休みだし」
何も予定がないんだから。休みの日なんて、そんなもんだろ?こんな状況で出掛ける気はないし、夏休みの宿題なんか、もっとする気になれないよ。
でも千夏は明るい声で、学校があるときでも起きないような時間を言い出した。
『6時には起きられないか?』
「6時?!」
そんなに早く?
もう1時半を回ってんのに?
『無理?』
「先輩…早いって…」
『6時に起きたら、6時半には来られるだろ?…出て来いよ』
言われた場所は、うちから自転車で10分くらいのところにある、24時間営業のファーストフード店。
「ナツ先輩…」
『やっぱオレ、お前と十日も会わないなんてムリ。朝メシくらい一緒に食いたい』
「あ…」
『一時間ぐらいしか、時間取れないけど。出て来いよ』
……全然、敵わない。この人には全部お見通しなんだ。
俺が会いたいって叫んでるの、聞こえたんだろ?何も言ってないのに。
手首にはまってるブレスを見つめた。甘い飴色は、千夏の瞳を思わせる。
『タケル?』
「…………」
『黙んなよ、寂しいじゃん』
「…………」
『タケルってば。なあ、繋がってんだろ?なんか言えって』
自分の手首に唇を寄せた。
千夏が俺を気遣ってくれるってわかる、こういう瞬間に思うんだ。この人が本当に好きなんだって。
「ナツ先輩」
『うん』
「…絶対行く」
少しの時間でもいい。どうしても会いたい。アンタの顔が見たい。
千夏のくすくす笑う声が聞こえてくる。じゃあ明日6時半な、って優しい声で囁いてくれる。
本当はありがとうって、言わなきゃいけなかったのに。それを思い出したのは、電話が切れた後だった。
ごろりとベッドに転がって、もうとっくに切れた携帯を握り締める。
最後に囁いてくれた「おやすみタケル」っていう甘い声が、耳の中でじんじん響いていた。あの声、もっと近くで聞きたかったな。
もっとそばで。息が触れるくらい近くで聞きたい。
「…千夏…」
まだそう呼ぶことを許してもらえない、特別な名前を口にして、俺はごそごそ自分の服を探った。
クーラー入れっぱなのに身体が熱い。俺の身体に火をつけるのは、いつも千夏だ。
最初はあの人が落ち込んでて、俺に「そばにいて」って言ったとき。
縋るみたいに俺の手を掴む千夏が、あまりにも可愛くて。
それまでも、きれいだとかカッコイイとかは思ってたけど、あんな可愛い顔されると思ってなくて、驚いた。
この部屋に千夏が泊まった日の後からはもう、全然止まらなくなった。