【その瞳に映るものI】 P:06


 
 
 
 ああもう、バカだ。
 朝から真夏日の街は、すっかり目を覚ましてる。必死に自転車をこぐ俺の横、何人かのサラリーマンが、疲れた顔で駅へ向かって歩いてた。
 片手をハンドルから離して、携帯を開き時間を確かめる。千夏からとくに連絡は入ってないようだけど、すでに6時40分。
 約束を10分も過ぎてる!
 1時間しか会えないのに!
 頭の中に色々と言い訳の言葉が浮かぶけど、そんなものがあの人に、通用するはずはない。
 昨日の夜、もう日付は回ってたけど、思いもよらずに千夏の声を聞いて。あと5時間もすれば会えるんだって思ったら、止まらなくなって。
 いやらしいことで一杯になってしまったアタマは、身体ごと鎮めてやんなきゃ、どうしても寝られなかったんだ。
 ……そのせいで寝過ごして、遅刻だなんて。本末転倒もいいところ。千夏に言ったら絶対ぶっ飛ばされる。
 ―――まだ俺たちは、友達なんだから。

 24時間開いてるファーストフードの、明るい色の看板が見えてきた。
 駐車場に停まってる、店に不似合いな高級車は、千夏の家のもの。
 慌ててペダルを漕ぐ足に力を込め、倒れそうな勢いで自転車を止める。
 焦りながら車を見れば、見覚えのある運転手さんが、店のロゴが入ってる紙コップ片手に、車の中から俺を見ていた。
 千夏が予定を繰り上げ、ここへ来たせいで、あの人も早く起されたのかな。
 申し訳なくて頭を下げると、いつもあんまり表情を変えない運転手さんは、やっぱり今日もどこか憮然とした顔で、会釈を返してくれる。
 悪い人じゃないと思うんだけど、俺はあの人がちょっと苦手だ。笠原家で働いてる人って、俺にでもにこにこ笑ってくれる人ばっかりだから、余計そう思うのかも。
 もう一度頭を下げて、店の中へ駆け込んだ。一階のフロアを見回しても、疲れきった顔で朝ごはんを食べてる人たちの中に、千夏の姿はない。
 急いで二階へ駆け上がる。
 朝は人がまばらな、二階のフロア。一番奥の窓際に、新聞を開いているスーツ姿があった。
 細身の身体にぴたりと似合ったスーツ。真剣な眼差しで記事を追っている顔に、疲れなんか微塵も見えない。
 車で来ているとはいえ、千夏の家からここまでは、30分くらいかかる。夜、電話を切ったのが1時半だったから、千夏はほとんど寝てないはずなのに。
 顔を上げてにこりと笑う表情は、いつもどおりの爽やかさだ。
「ごめん、先輩…遅れた」
「おはよう、タケル」
 一言も俺を責めたりしない。こんな風にされる方が、余計に自分の過失を重く感じるのは俺だけかな。ひょっとして、わかってやってる?
「…おはよ」
 そんなはずないよな……千夏は誰の過失でも、仕方ないとわかれば、責めたりしないんだ。一度謝れば許してくれる。
 学校の後輩にもそうしてるの、見たことがあるから。

 何をしでかしたのかしらないけど、真っ青になって千夏に謝っていた、嶺華(リョウカ)の後輩さん。会長って呼んでたから生徒会の人かもしれない。でも嶺華生の後輩さんはみんな、千夏を「会長」って呼んでるんだ。
 常に「先輩」って呼ぶのは、嶺華生でもなんでもない俺だけ。
 俺だけ特別ってのは、それなりに気分がいい。……本当は千夏って呼びたいけど。

 改めて千夏を見つめる。
 なんだかいつもより大人っぽく見えるのは、髪形のせいかも。いつもは緩く後ろへ流してるだけの髪。今日は誰かに会うのか、ぴしっと撫でつけてある。
 どこから見ても高校生には見えないよ。兄貴が童顔だからか、いっそ千夏の方が兄貴より年上みたいだ。
「…お前、なに手ぶらで立ってんの?」
「え?」
 俺は言われた意味がわからずに、自分の手を見つめた。財布と携帯はジーンズのポケットに突っ込んであるし……あ。
「注文、忘れた」
「あはは!何やってんの、お前?待ってるから買って来いよ」
「でも…」
「いいから行って来いって」
 な?って。笑顔の千夏に新聞を畳みながら言われ、俺は再び足早に一階ーへ降りて行った。
 時間ないってわかってんのに、本気でバカだな俺って。
 適当に注文して、商品の並んだトレイを奪う勢いで掴み、また上へ駆け上がる。
 千夏の前に座ったら、溜め息が零れてしまった。
「ごめんな、先に食った」
「いいよ…俺の方こそ、遅れてごめん」
「まだ早いもんなあ…モーニングコールでもした方が良かった?」
 にやにや笑われて、思わず赤くなってしまう。朝から千夏の声なんか聞いたら、また大変なことになるだろっ。
 くそ……このままじゃ、赤面してる理由までツッコまれそうだ。話を変えよう。
「今日、どこ行くんだ?」
「うん?えーっと、朝イチの便で成田から上海行って、夕方に北京へ移動して…明日の昼には日本に戻るけど、成田から東京駅行って、そのまま新幹線で京都かな」