「…大変だな」
移動距離だけで、どれくらいあるんだろう?まだ一度しか日本から出たことのない俺にとっては、想像もつかないスケジュールだ。
「まあな。北京からだったら関空の方が近いし、京都へも行きやすいんだけどさ。母さんと合流するから、成田へ戻って東京駅まで来いって言われた」
「お母さんが一緒なのか?」
「ああ、母さんの知り合いに会うから、母さんに付き合ってもらうんだ。…また新幹線に乗ってる間中うるさいんだろうな…タケルに八つ橋買うんだって、はしゃいでたけど。お前、食う?」
「食べる」
俺の答えを聞いて、千夏はにこりと微笑んだ。
アキさんが言うには、普段どこへ行っても土産なんて買わないらしいけど。千夏は俺が甘党だって知ってて、気が向くと色々買って来てくれる。
千夏のお母さんにも知られてるんだ、俺が甘党なこと。……子供っぽくて、自分ではちょっとイヤなんだけど。
でも笠原(カサハラ)の家で、俺がいないときにでも俺の話題が出てるって知るのは、ちょっと嬉しい。
「…お母さんとの用事なら、別の日にしてもらえば良かったのに」
なにも一番忙しい時期じゃなくてもって思ったから言うと、千夏は肩を竦めた。
「仕方ないよ。夏休み入ってからは学校のことで、忙しかったからな。母さんには他の日でもいいって言われたけど、オレがこの十日間に自分の用事全部、詰め込んだんだ」
「ちゃんと寝てんのか?」
「まあね。オレあんま寝なくても平気な方だし…昔っから睡眠時間って、4時間とか5時間」
「マジ?!身体壊すって」
俺なんか8時間寝ても全然足りなくて、授業中に爆睡してんのに。
「長く寝るとアタマ痛くなんだよな〜」
「昼間に眠くならないか?」
「いや、別に…アキは休みの日なんか、一日中寝てんだけど。猫みたいにベッドでごろごろ、気持ち良さそうにしてんの見てると、ちょっと羨ましい」
オレには出来ないって、苦笑いを浮かべる千夏は、ちらりと上目遣いに俺を見た。
「お前の方は?親御さん元気だったか?」
「…うん」
元気だったよ。余計なこと言い出すくらいに。
思わず暗くなってしまう俺の顔、千夏が覗き込んだ。
「何か言われたんだろ。顔に書いてある」
「先輩…」
「オレには言えないこと?…言いたくないなら、無理には聞かないけどさ」
にこりと笑う顔に心配そうな陰を見て、俺は手にしていたバーガーを置いた。
言った方がアンタは安心するのかな。
「…一琉ちゃんは酔ってなかったって、アキが言ってた」
「うん…ごめん」
千夏を心配させないためだったけど、結果的には嘘をついてしまった。
じっと俺を見つめながら、でも急かそうとはせずに、紙コップのコーヒーを傾けてる。千夏普段はコーヒー飲まないのに、朝だけは飲むんだよな。
嚥下する喉元を見てると、昨日思い描いていた千夏が蘇って、思わずドキドキしてしまう。
軽く頭を振った。そんなこと考えてる場合じゃないだろ。心配させてんのに。
どう言おうかと考えながら、買ってきたコーラを口にする。炭酸に喉を刺激され、俺はこの人に下手な小細工は無駄だと、自分に言い聞かせた。
「あのさ…」
「ん?」
「昨日、またピアノ弾いてるって、親にバレたんだ」
「…バレた?」
「バレたっていうか、兄貴にバラされたっていうか…」
家で練習してるから、兄貴にはとっくにバレてたけど。千夏の前でしか弾きたくないと言った俺の言葉、兄貴はどう受け取ってたんだろう。まさか両親にバラされるとは思ってなかった。
「お前、またピアノ弾き始めたこと、ご両親に言ってなかったのか?」
俺が頷くと、千夏は少し渋い顔になる。
「それは…驚かれただろうな」
苦笑いしてる。
俺がピアノをやめたことを、残念がってくれた千夏だからこそ。人前で弾きたくない俺の気持ちは、なかなか伝わらない。
幼い頃習っていたピアノをやめたのは、音楽家って人種をどうしても受け入れられないって、わかったからだ。
俺がどんなに頑張ったって、習っていた先生からは「やっぱり藤崎さんの子だ」としか言われない。
同じ教室に通っていた子供たちとは、仲良くしてたけど、ある時から急に嫌味を言われたり、無視されるようになった。
彼らの目に見え隠れしていたのは嫉妬。先生が俺ばかり構うのが気に入らなかったらしい。
このとき俺は、音楽をやる人間の本性を見たように思った。
俺自身は何言われたって、何されたって気にしないけど。あいつら俺がダメージ受けてないって知ると、今度は兄貴のことを持ち出すんだ。
武琉の兄ちゃんは楽譜も読めない、出来損ないなんだろ、って。
確かに藤崎家は、楽器が出来るの当たり前って家だ。ご先祖様は宮廷音楽をやってたんだとか聞いたこともある。