【その瞳に映るものI】 P:08


 俺のピアノを聴いた親戚は揃って「お兄さんはダメだったけど、武琉君がいて良かったわね」って両親に言っていた。
 なんで兄貴がダメなんだ?
 たくさん我慢して、俺を育ててくれてる自慢の兄貴。誰より綺麗で、誰より強い人なのに。
 ピアノが弾けるのは、そんなに凄いことか?音楽家って、そんな偉いの?
 幼い俺が頑張ってることを褒めてくれたのは、兄貴だけだった。
 俺の奏でる音じゃなく、毎日練習してることや、友達と遊ばずに教室へ通うこと。俺自身のことを見ていてくれたのは、兄貴だけ。
 兄貴が応援してくれてたから、頑張ったのに。そのことでいっそう、兄貴の立場が悪くなるなんて。
 大切なのは、両親の名前なのか?
 じゃあ俺はピアノを弾くマシン?
 そんなの、機械仕掛けで音を奏でるピアノの方が、ずっと優秀なんだから。俺が弾く必要はない。

「…自分たちと一緒に行かないかって、言われたんだ」
「行くって、どこへ?」
「アメリカとか、ヨーロッパとか…自分たちのツアーについて来いって言われた…」
 ピアノの調律が出来ていたことを知るなり、両親の態度は変わった。まるで買ったまま忘れて放り出していたオモチャを、思い出したみたいに。
 あんまりにも唐突で、自分勝手な話。
 俺のことなんか、何も考えてないんだ。
「兄貴からピアノ再開したって聞いて、急に俺のこと思い出したんだろ」
「そんな風に言うなよ。ご両親だって、本当はずっと気にしてたんじゃねえの?」
 千夏はまるで、聞いてたみたいに言ってくれる。でも俺は首を振った。
 あの人たちは、アンタみたいに優しいわけじゃない。
「この際、ピアノ弾くならジャズでもクラシックでもいいって言うんだぞ?どっちでもいいなんて、そんなのどうでもいいって意味と変わらない」
「タケル」
「ジャズをやってるなら、アメリカは本場だからついて来いとか。せっかく再開したなら弾いて聞かせろとか。…俺はナツ先輩の為に弾いてるだけなのに」
 千夏は最近になって、昔習ってたピアノを再開した。アキさんがやめたいと言ったから、一緒にやめたというピアノ。本当は自分だけでも、続けたかったみたい。
 その時言われたんだ。練習するから一緒に弾いてくれって。……すごく、嬉しくてさ。千夏と連弾したり、同じ曲の話をするのって、想像するだけでドキドキした。

 この人となら、弾いてもいいって思えたんだよ。
 千夏は「ピアニストになりたいわけじゃないから」と、いろんなスコアを買ってきて、何にしようか?って笑った。
 そんなやり方、考えたこともなくて。ほんとに驚いたんだ。俺はバイエルを順番にやるピアノしか知らなかったから。
 シェーナでスコア広げてると、店のマスターやオーナーさんまで一緒になって話に入ってきた。みんなで、わいわい。これがいいとか、それは難しいそうだとか。
 あんな風にピアノの話をしたのは、初めてだった。旅行の行き先でも相談するみたいで、すごく楽しくかった。
 俺はピアノを使って、千夏と遊んでいたいだけ。
 あいつらみたいに必死になって、家族を犠牲にしてでも、音に齧り付いたりするような人間にはなりたくない。

 俺の話を聞いて、千夏はテーブルに肘を突くと、少し口元を綻ばせた。
「アメリカかあ…」
「行くわけないのに」
「…そうなのか?」
 驚いたように千夏が言うから、俺までびっくりしてしまう。
「どういう、意味だよ」
「いや、なんか。それも楽しそうだと思ってさ」
「先輩っ」
「え?…だって、ご両親の周りには音楽が溢れてるわけだろ?お前のお父さん昔、指揮やる前はピアノ弾いてたって聞いたことあるし」
 ふっと微笑んだかと思うと、千夏はまるで当たり前のことみたいに「ついて行ってもいいんじゃね?」と言い出した。
「なに…言って…短期間のことじゃねえんだぞ?ツアーについて来いってのは、少なくとも半年、下手したら一年くらい日本を離れろってことなんだから」
「まあ、そうなるよな」
 わかってる、と頷いてる。
 何だよそれ。何でそんなこと言うんだ?
「でもオレさあ、最近またピアノ弾くようになって、当たり前だけど難しいなあって思うんだよな。初見でさらっと弾けるお前のこと、凄いと思うし」
 初見……初めて見る楽譜を頭ん中で整理して弾くのは、昔から得意だった。
 でもそんなの、訓練すれば誰でも出来ることだ。
「…すごくなんか、ないだろ…」
「え〜!スゲエよ!お前が弾いてんのって、見てるだけでもオレと全然違うし。まあオレと比べんのも、悪ぃけど」
「先輩…」
「やっぱベースが違うんだよな。お前がプロの教えを受けたら、どんなことになんのか。ちょっと見てみたい」
 にこりと笑われて、俺は手を握り締めると、下を向いた。
「タケル?…どうした?」
 なんだよそれ…くそっ、なんなんだよ!