兄貴マジ趣味悪ぃ。
顔を背けて黙りこくる俺のこと、アキさんは探るように見つめてる。反応を窺うような態度が、余計に苛立った。
「…ほんとに自覚ないんだ?」
「言いがかりです」
「そう。じゃあさあ、もうナツに関わるのヤメてくれる?君、面倒くさいし。あと先生のことも僕が引き受けるから、忘れてくれていいよ。藤崎家に音楽の才能がない人なんか、いらないでしょ?」
最後の言葉で、俺はとうとうキレた。
勢いよく立ち上がり、アキさんの胸倉を掴む。この人が千夏の兄さんだとか、兄貴の恋人だとか、全部吹っ飛んでた。
こいつは俺に、絶対に言っちゃいけないこと、言ったんだ。
「アンタに何がわかるんだ」
「…………」
「兄貴の何がわかるんだ?!兄貴がどんなに辛い思いをしてきたか、アンタ知ってんのかよ!何も知らないくせに、偉そうなこと言うなっ!」
何が兄貴を引き受けるだよ。アンタなんかに俺の兄貴を任せられるもんか!
「たった一人、親族中から責められて。親にまで見離されて。たかが音楽のことで兄貴がどんなに苦しんだか、アンタは何も知らないじゃないかっ」
怒鳴る俺の手を、アキさんは強い力で叩き落す。
「それがわかっているのに、ピアノを理由にして先生を見離したのは君だろっ!」
痛いくらい叩きつけられた言葉。
鋭い視線に射竦められ、愕然とした。
まるで頭から冷や水かけられた感じ。怒りで熱くなっていた頭が、一気に冷えていく。アキさんの落ち着いた声が、余計に突き刺さった。
「…いいかい?君の言うことは、いちいちもっともだよ。一琉(イチル)は全然自覚してないけど、あれでいてご両親や、君の音楽の才能に、強い劣等感を持ってる。それを理由にされたら、絶対に強くは出られないんだ」
「アキさん…」
「自分では君の役に立たない。音楽のことはご両親じゃないと、自分では何もアドバイス出来ないって。…あの人がどんな気持ちで君を送り出したのか、君は本当にわかってるの?」
どさっと身体が落ちる。座り込んだ俺のことを、アキさんは静かに見つめて溜め息を吐いていた。
好きにすればいいと、俺を送り出してくれた兄貴。
―――まさかそんなこと、考えてた?
「俺…俺は…」
ただそうした方が、兄貴が喜ぶと思ったんだ。アキさんと一緒にいられる方が幸せなんだって。俺は邪魔だと思ったから。
そうするのが『大人』のやり方だって、優しさだって思って……。
うな垂れる俺の頭。アキさんは千夏がしてくれるみたいに、優しく撫でてくれる。
顔を上げるとそこには、見慣れた表情のアキさんがいた。穏やかに笑う、千夏の隣にいるときと同じ顔。
「…酷いことを言ってごめんね。君を気に入らないなんて、嘘だよ」
少し眉を下げた顔は、やっぱり千夏とそっくりだ。
「ナツも先生も、君のことを本当に可愛がってる。二人から武琉くんのこと聞いてると、なんだか僕まで君のことが可愛くなってくるんだ」
「アキさん…」
「嫌なことばっかり聞かせたね。でも君の本音が聞きたかったし、一生懸命先生のことを守ってた気持ち、思い出して欲しかったんだ」
ごめんね、と謝るアキさんに、俺は首を振った。だって自分の考えが至らなかったこと、アキさんが教えてくれたんだ。
「…俺、その方がいいと思って…」
「うん」
「俺がいないほうが、兄貴は幸せなんだって思ったから」
ずっと俺の面倒を見てくれた兄貴。
9歳しか離れてない弟を育てるなんて、どんなに大変だろうって。
早く兄貴を自由にしないとって、そればかり考えてたから。
唇を噛み締める俺の肩を、アキさんはすぐ傍でさすってくれた。
「ねえ、武琉くん。君がいなくなってるのに、先生が幸せなんて。そんなの、ありえないよ」
「でも…兄貴にはアキさんが…」
「そうだね。僕と先生も良くなかった。自分たちのことばっかり考えて、君の気持ちを置き去りにしてたかな」
苦笑いを浮かべるアキさんは「浮かれてたんだよ」と照れくさそうに零してる。
「先生言ってたよ。君がいないと不安で寂しいって。確かに眠りも浅いみたいだし、僕が一緒じゃないと、まともに食事も摂ってないみたいなんだ」
「兄貴が?」
風邪ひいたときでも、同級生が事故で亡くなったときでも、そんなことにはならなかった。そんな兄貴は見たことない。
俺にだって「ご飯だけはちゃんと食べなさい」っていつも言ってた。
なのに俺の知らない所で、そんなにも苦しんでるの?
呆然とする俺に、アキさんは困った顔で頷いていた。
「ちょっと妬けるよ。僕と一緒にいても君のことばっかり考えてるんだから。…君のことを心配するあまり、デートまで断られちゃったくらい」
「それは…すいません」
「ははは。いいよ、いつでも出来るし。先生が落ち着くまで待ってるから」