優しい笑顔が本当に千夏と同じなんだ。でもアキさんの方が少し、落ち着いてるようにも思えた。
アキさんと千夏は、静と動。
活発な千夏のそばで、アキさんは静かに千夏を見つめてる。
アキさんは俺に対して少し妬けるって言うけど、俺も二人が羨ましい。
何度か俺の頭を撫でて、そっと手を離したアキさんは、俺の顔を覗きこんで首を傾げた。
「武琉くん…僕にはどうしても、不思議なんだけど。君はどうして急に、ご両親の元へ行こうと思ったの?ご両親と一緒にアメリカに行ってジャズピアノを学ぶって話、まだ先のことだよね」
改めてアキさんからそう聞かれ、俺はすぐ答えられずに、黙って指を組んだ。
頭の中を整理する。
兄貴とは近すぎて言えないこと。千夏には感情が先走りすぎて、言えないこと。子供っぽくて自分でも嫌になる、情けない気持ち。
アキさんだったら、聞いてくれるかな。
「あの…」
「うん?」
「俺、その…馬鹿みたいにガキなんですけど。聞いてくれますか?」
上手く話せるかどうかわからない。不安で顔を上げる俺に、アキさんはにこりと笑って、頷いてくれる。
「僕でいいなら、いくらでも」
許しをもらった俺は、あの日の朝を思い出していた。
千夏に気持ちが伝わらなくて、泣きたくなるくらい悔しかった夏休みの朝。
唐突で、あまりに自分勝手な俺の両親が提案した話を聞いた千夏は、それもいいんじゃないかと、随分乗り気だった。
両親と一緒にアメリカへ行ってしまったら、半年以上戻って来られない。そう訴える俺に、千夏は「心配するな」と笑う。
兄貴にはアキさんがいて、アキさんには自分がいるからと。全部守ってやるから、お前は自分のことを考えろと言う。
でも俺にあるのは、千夏のそばにいたいという思いだけだ。ピアノとか、ジャズとか、そんなの千夏がいなかったら、全然意味なんかない。
だけど俺は、忙しく去っていく千夏を見ていて、あの人が置こうとする距離を、受け入れた方がいいんじゃないかと思って。
離れた所から千夏を見守っていられる、大人の男にならなきゃいけないんだって思えて。
俺が兄貴と住む家を出たら、少し千夏に近づける気がしたんだ。
距離は遠くなってしまうけど、俺が憧れてる千夏って存在に、少しは近づいていけるんじゃないかと。
だから、兄貴を自由にしてやれっていう両親の言葉を受け入れた。
一度ピアノに向き合ってみろという、千夏の言葉を受け入れた。
大事にしていたものを全て、自分から遠ざけて。
大人になりたいって、そう思って。
なかなか上手く話せない、俺の愚痴っぽい話を、アキさんは最後まで急かさずに聞いてくれた。
アキさん人の話を聞くのが上手い。余計なことは言わず、絶妙なタイミングで相槌を打ってくれる。
「…だから、家に帰って、出て行く準備をしたんです」
最後にそう言うと、アキさんは溜め息を吐いて、ぐったりソファーに寄りかかってしまった。
俺の話が長かったかな?って思ったら、そうじゃないらしくて。
「…わかった」
「アキさん?」
「話してくれて、ありがと。よくわかったよ。全部ナツの説明不足が原因なんだって…あの、バカッ!」
ここにはいない千夏にぶつけるみたいに吐き出し、アキさんはバシッ、とソファーを叩いてる。
「も〜…ほんとにあの子は!ごめんね武琉くん。ちゃんと説明してあげる。悪いのはナツだから、安心して聞いて」
また溜め息を吐いて、ぬるくなってる麦茶を飲み干したアキさんは、苦笑いを浮かべたまま俺を見ていた。
「まず、ね。ナツは君がアメリカに行っても、少しも離れるなんて思ってないんだ」
「え…?」
「あの子が世界中飛び回ってるのは、君も知ってるよね?」
「はい」
国内はもちろん、最近の千夏は週末ごとに海外へ飛び出してる。俺が泊まりに行かなくなったからだ。
「考え方がグローバルなんだよ。アメリカなんて、すぐそこ、ぐらいの意識しかないんだ。会いたかったら会いに行けばいいんだし〜って。きっとナツは考えてる」
「でも…アメリカ、ですよ?」
会いたいと思って飛行機に飛び乗ったからって、一時間や二時間で着く距離じゃない。俺の言葉にアキさんは、うんうん頷いていた。
「武琉くんが正しいよ。それが普通。僕もそう思う。でもナツは違うんだ」
うんざりした顔に、苦笑い。
「だってあの子、今イギリスにいるんだけど。なんて言って飛んでったと思う?…うちのおじい様に頼まれたから、ちょっとレディングまで手紙を届けてくる。って言ったんだよ」
「…レディング?って、どこですか?」
「ロンドンのちょっと西なんだって。僕も地名しか知らなかったから、ナツに言われて地図開いた」
「そこへ…手紙を届けに?」