「そう。郵便局へ行け!って話だよね。だからまず、あの子にとって物理的な距離は意味がないんだ」
「…はあ」
確かにそれは、あまりにも俺と感覚の違う話だ。
「あとピアノね。ナツは自分の可能性を探ることに貪欲なんだよ。興味があったら、どんなことでも自分でやってみる。向いてないと思ったら、その時にやめればいいって言うんだ」
さらりとした自分の前髪を少し引っ張って、アキさんは肩を竦めた。
「武琉くんにも、そう言いたかったんじゃないかな」
「俺にも?」
「うん。…せっかく才能があるんだから、ちょっとアメリカまで行って、勉強してみれば?って。その後で、やっぱりピアノは趣味でいいや!って思ったら、帰ってくればいいじゃん…なんてね。無茶言うよね」
アキさんの目には同情が浮かんでる。俺は目を丸くしてるしかなかった。
千夏のこと、けっこうわかってるつもりだったけど。あの人は俺の想像を、はるかに超えているらしい。
「大変だよ、あの子に付き合うのは。自分がそういう基準で動いてるから、他人も同じだと思ってるし。…オフィシャルな仕事ならナツほど役に立つ人間はいないと思うけど、メンタルな部分が子供なんだ」
千夏が……子供?!
思ってもいなかったことを言われ、俺はアキさんをまじまじ見つめてしまった。
だってまさか、あの千夏を子供扱いする人がいるなんて思わないだろ。どんなことにも対応できて、何でも出来る人なのに。
驚いてる俺に気づいたのか、アキさんはちょっと意地悪な顔で笑っていた。
「ナツが子供なんて…って、思ってる?」
「…正直」
「あはは。武琉くんはほんとに、ナツが好きなんだね」
あっさり言われ、思わず顔が赤くなってしまった。
「ナツはああ見えて、子供だよ。今もきっと、自分が武琉くんを傷つけたなんて、想像もしてないんだ。…そうだね。ちょっとは思い知ればいいよね」
ひとり言みたいに最後の言葉を呟いたアキさんは、携帯を出してどこかへかけ始める。何をする気なのかと見守る俺に、指を立てて沈黙を促した。
「…ナツ?」
相手、千夏だ。
え……今ってその、イギリスのレディングとかってところにいるんだろ?
でもアキさんは、まるで家にでもかけてる気軽さで話してる。
こんな簡単に電話できるんだ……。
携帯の機種変した時、世界中で使えますよって言われたけど、自分にはどうせ関係ないと思ってた。ひょっとして、俺の携帯でも話せるのかな。
元気?とか、用事は終わった?とか聞いていたアキさん。しばらくすると、俺を見て口元を吊り上げた。
「ところでね、ナツ。さっきまで僕、武琉くんと一緒だったんだよ。…うん、そうだけど。…まあね」
千夏の声は聞こえてこない。アキさんは一体、何を始めるつもりなんだろう?
「元気じゃないよ。武琉くん、すごく落ち込んでる。…知らない。…わかんないってば。…なに言ってるの?武琉くんを傷つけたのは、ナツだよ」
―――俺の話?!
「僕が聞いてどうするの?わかるはずないじゃん。…先生は関係ないでしょ?ナツが帰ってから、自分で聞いてよね。…わかってるけど、それが何?ナツは武琉くんのこと、人任せにするつもり?いい加減にしないと怒るよ。…うるさいなあ、自分で招いたことなんだから、自分で対処して。教えてあげただけでも感謝してよね。じゃあ切るから!知るはずないでしょ!」
ぴしゃりと言い放ったアキさんは、本当に電話を切ってしまう。
「武琉くん、ナツから電話があっても出ちゃダメだよ」
「アキさん…でも」
「あの子は少し、どうしようもない距離とか時間ってものを、理解しなきゃダメなんだ。武琉くんをこんなに不安にさせたんだから、これくらい当然」
大げさに肩を竦めて笑ってるけど、アキさんは少し心配そうに自分の電話を見つめてる。
あんな風に言ったことで、千夏がどんなに動揺するか。この人はちゃんとわかっているんだ。それでも、千夏のためだからって、厳しいことをする。
「…武琉くん、手を出して?」
「はい?」
言われたとおり手を出すと、渡されたのは鍵だった。見覚えのあるキーホルダー。兄貴と住んでいたマンションを出てきたときに置いてきた、俺の鍵。
「先生が僕にくれるって言ったんだけど。それ君のでしょ?」
「でも兄貴は、アキさんに貰って欲しいんじゃないんですか?だったら…」
受け取れない、と言おうとした俺を、アキさんは笑顔で制した。
「今の一琉が何言ったって、信用できないよ。頭の中、武琉くんのことでいっぱいなんだから」
「アキさん…」
「まあ、もうちょっと落ち着いて。どうしても僕に持っていて欲しいんだ!って。新しい鍵でも用意するなら、貰ってあげるけどね」
意地悪い笑顔で、片目を瞑る。なんとなく兄貴とアキさんが二人でいる雰囲気、想像できる気がした。