【その瞳に映るものK】 P:09


 千夏はまだ震えてる手で、戸惑いがちに俺の制服を掴んでいた。
「怖かった?」
「…ちょっと」
「うん…ごめん。でも俺も怖かったよ…アンタと離れなきゃいけないんじゃないかって、夏休みからずっと、そればっかり考えてた」
 片手で俺の制服掴んだまま、千夏は空いた手の甲で涙を拭う。
 そうして、赤くなった目で俺を見上げてくれた。
 頬のラインを手でたどってみたけど、千夏は全然嫌がらなかった。
「なあ、俺…アメリカなんか、行きたくない。俺はずっと日本で、アンタの帰りを待っていたい」
「うん…」
「アンタが色んな所へ飛んでっちゃうのは仕方ないって、思ってるけど。俺まで飛び回ったら、どんどん会えなくなる。そんなのは嫌だよ」
 あの時言えなかった、正直な気持ちを伝える。俺はまだ、自分のことなんか考えられないよ。千夏のことで頭が一杯だ。
 千夏は何度かまばたきをして。目を伏せたかと思ったら、俺の胸に頭を押し付けてくれた。
 初めて千夏から、抱きつかれる。心臓が跳ね上がった。
「オレも、初めてそう思った…」
「先輩」
「アキにお前を傷つけたって言われて、どうしても理由がわからなくて。すぐに会いたかったけど、チケット取れないし、トランジット手間取るし…何十時間も飛行機に閉じ込められながら、ずっとお前のこと考えてて、一睡も出来なかった」
 肩が震えてる。
 泣いているせいか、耳の先が赤くなっていた。
「電話してもメールしても、お前とは連絡取れないし…出てもらえない携帯見てるの辛くて、人前なのに涙が止まらなかったんだ。もう、ダメなのかなって…そう思ったら全然、言葉が出てこなくなった…」
 だからたった一言、俺の名前をメールに書いたのか?
 ……あれはアンタの悲鳴だったんだね。
「会いたくて、どうしようもなくて。お前の顔が見られるなら、もう何言われても、何されてもいいって思ってるのに。
すぐに会えないことが、あんなに辛いと思わなかった。どうしてオレ、こんなに遠く、タケルから離れたんだろうって…すごい後悔したんだ…」
 千夏の手が背中に回る。身体を押し付けられる。見た目よりずっと華奢な身体に、ドキドキする。
 俺も千夏の背中に手を回して、懐いてくれる身体を抱きしめた。
「タケル…行かないで。ここでオレのこと待ってて」
「うん」
「ちゃんと帰ってくるから。必ずお前の所に、帰ってくるよ」
 ゆっくり顔を上げた千夏は、涙に濡れてるままの目で、俺を見つめてる。
 アキさんが千夏のこと、子供だって言ってたけど。確かにワガママを言う今の千夏は、幼くて可愛い。
 その表情が、また少し暗くなった。
「先輩?」
「ピアノ…」
「ん?」
「ピアノのことも、オレの独りよがりだった?…オレはお前のピアノの音が好きで、ピアノを弾いてるお前の姿が好きだから…もっと見られたらいいなって。それだけだったんだ」
 しゅんと下を向いてしまう。
 俺は千夏の髪を梳きながら、そうだな、と呟いた。
 確かに俺は、自分で思うよりずっと、ピアノが好きなんだろう。
 この家で暮らすようになって、時間を構わずグランドピアノに触れるようになったら、やっぱり楽しかった。
 父さんに姿勢を指摘されて、鬱陶しいと思ったけど、次の時から無意識に気をつけてた。
 置きっぱなしになってたバイエル。一人で順番に弾いたんだ。
 でもやっぱり、俺は両親みたい生きられない。
「…ピアノは続けると思う」
「タケル…」
「でも俺は、これ以上深く、音楽に関わりたくないんだ。期待を裏切ってごめん。でも俺は…」
 言い訳を口にしようとした俺に、千夏はぎゅっと強く抱きついて、俺の胸で首を振った。
「いいんだ。タケルのしたいように、すればいい」
「先輩」
「ごめん、酷いこと言った。…タケルや一琉ちゃんにとって、音楽がどんなに大きな存在なのか。オレ全然、わかってなかったんだ…」
 ―――また泣いてる。
 ごめんって何度も呟きながら、肩を震わせてる。ほんとにアンタは……どうしようもなく可愛くて、眩暈がしそうだよ。
「続けるって言ったろ?自分の好きなもの弾いて楽しむピアノ、教えてくれたのはアンタじゃん」
 ありがとう、って囁くと、ようやく千夏は嬉しそうに笑ってくれた。
「一緒に弾こうって、約束したしな」
「…うん」
 俺の言葉にうっとりした表情で微笑んだ千夏は、何気なく手を伸ばし、指先で俺の唇を触った。
「先輩…?」
「…キス、したい…」
 ぼんやりとしたセリフ。
 帰国の間中、俺のことを考えていたと言う千夏は、少し混乱してるみたいだ。寝てないアタマでは、自分の言葉さえ理解に時間がかかるんだろう。
 何されてもいいとか、キスしたいとか。
 普段の千夏だったら絶対に言わないセリフばかり。