住み込みのお手伝いさんや、料理人の人がいるんだから。料理人なんか和食と洋食と、別の人が住み込んでるんだし。
「でもうちの母さん、自分の服も畳めないんだぜ」
「…ほんとに?」
「ほんと。全部放り出して、誰かにやってもらってんの。結婚するまでは、自分で自分の髪を洗ったこともなかったって」
「それはそれで凄いけどな」
「母さん一人に、5人ぐらいの人がついてたんだってさ。でも母さんの父親にあたるオレのじいちゃんは、何でも自分でやる人なんだ」
「同じ家に住んでたのに?」
「うん。若い頃イギリスに留学してて、もちろん人は付いて行ったんだけど、向こうで会った人に甘えるな!って叱られたらしいんだよ。それ以来、笠原(カサハラ)家は男子のみ自分のこと自分でやるんだ」
箸の上げ下ろしまで世話されるのは女だけ、って千夏は笑う。
千夏のおじいさんって、よく話に出てくる人だ。
「先輩のおじいさんって、どんな人?」
「意地悪じいさん」
「え?」
「自分で言ってる。ワシは意地悪じいさんと呼ばれることに満足しとるんだ、いちいち騒ぐなとっとと諦めろ。って、孫を泣かせた時でも平気で言うんだよ。いまだにオレ、何やってもじいちゃんにだけは勝てる気がしない」
嫌そうに溜め息ついてるけど、アキさんが言ってた。千夏の最終目標はその人なんだって。
「でも憧れてるんだよな?」
「なんでそれ…」
「アキさんに聞いた」
確かに凄い人だけど、凄過ぎて誰も同じようになりたいとは思わないって。真剣にそこを目指してるのは、千夏だけだって聞いたよ。だからそのおじいさんも、千夏を可愛がってるんだって言ってた。
俺の言葉を聞いた千夏は、照れくさそうに笑う。ちょっと頬を染めて箸を置くと、手を合わせた。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
「うん」
「ありがとう、タケル」
にっこり笑う顔が可愛い。この笑顔のためだったら、俺は何でも出来る。
でもこのセリフは何も、特別なものじゃないんだ。千夏は何をどこで食っても、作った人に会えるところなら、必ず同じことを口にする。
ごちそうさまでした。美味しかった。ありがとう。
お店でも家でも。千夏はストレートな言葉を躊躇わない。そういうところが凄いと思うし、好きなんだ。
「どういたしまして」
俺が答えて、食器片付けるのに立ち上がろうとしてたら、千夏はすっと手を伸ばして俺の左手に触れた。
きれいな指先にドキッとする。
「な、なに?」
「これ。このブレス」
「え?…ああ」
俺の左手首にはまってるレザーのブレスは、千夏に貰ったものだ。
「じいちゃんが昔、似た感じのをつけてたんだよ」
「そうなんだ?」
じゃあアキさんの言ってたのは、やっぱりおじいさんのことだったのか。
これを千夏の憧れてる人がつけてて、同じもの探したんだって聞いたとき、それが誰かちょっと気になってたんだ。
「ガキの頃のオレは、カタチから入ることしか知らなくてさ。じいちゃんと同じものつけたら、同じようになるんじゃないかと思ってたんだ」
「…大事なものなんだろ。俺が貰って良かったのか?」
くれたのは本当に嬉しかったけど、無理はして欲しくない。俺が返した方がいいのかなって思いながら聞くと、千夏は優しく微笑んで、軽くブレスを引っ掻いた。
「貰って欲しかったんだよ」
「先輩…」
「これをつけてた頃だって、自分なりに一生懸命やってたつもりだけど。カッコばっかり気にしてる自分に気付いてた。だからこれは、その頃のオレの象徴なんだ」
過去の自分から目を逸らさない千夏は、少し懐かしそうな表情を浮かべてる。
「周りも見ずに走ってた頃の自分を、誰かに預かって欲しかったんだよな」
指先でブレスを弄りながら、顔を上げた千夏は、苦笑いで俺を見ていた。
「そんな重たいこと、渡したときはさすがに言えなくて…でもタケルが本当にコレ、大事にしてくれるから。言いたくなった」
「先輩…」
「飽きたら捨てていいよ。こんなものはそれこそ、カタチだけ。…あの時の自分の思い、お前に言えたから。これはもう、ただのブレスだ」
な?って微笑む顔が、あんまりにも綺麗でどきどきする。
キス、したいな。俺が恋人だったら、何も考えずに千夏の唇を塞げるのに。でもまだ友達だから、俺は千夏の手の上からブレスをぎゅうって掴んで、首を振った。
「捨てないよ。大事にする」
「タケル…」
「アンタの思いは聞いたよ。これはもう、ただのブレス。でも俺にとって、千夏から貰った大事なものだから。捨てない」
気に入ってるんだよって言いながら、俺はブレスに唇を寄せる。な?って笑って顔を上げたら、千夏はなぜか真っ赤になっていて。
ふいっと顔を背け、拗ねたように「ありがと」と呟いた。