笹山厳選のエスプレッソを染み込ませたスポンジ生地と、マスカルポーネをしっかりふんわり泡立てたチーズクリームの間に、薄く挟んだチョコレートのババロアはビターに仕上げられていて、男性客にも評判がいい。クリスマス仕様のデセールには、女性客も可愛い!と声を上げる。
しかしなぜ長谷が作ると、こう……雨上がりの踏み荒らされた泥道のようになってしまうのか。
橘は目の前に置かれた皿を、じいっと見つめる。そして、ゆっくりスプーンを差し入れていく。
食べるのを躊躇っているのではない。
長谷はもう気付いている。料理よりも時間をかけて、デザートを味わう橘。彼自身は全然自覚していないようだが、間違いなくかなりの甘党だ。
―――な〜あ、橘さん。美味しい?
―――ああ。
―――めっちゃ美味しい?
―――ああ。
―――超、幸せ?
―――ああ。
答えはそっけないけど。それはきっと、夢中になって食べてくれているから。
長谷はテーブルに腕を置き、その上に顔を乗せて、橘の綺麗な顔をじいっと見上げた。
―――…橘さん、橘なにさん、いうの?
―――トウゴ
あんなに渋っていた名前を、あっさり口にした。会話が面倒だとでも言うみたいに。
長谷はふっと口元を綻ばせ、嬉しそうに微笑んだ。
―――トウゴて、どんな字?
―――冬に、漢数字の五と口。
―――橘 冬吾か…ええなあ。オレ、冬吾さんて呼びたい。これからそう呼んでもええかな。
―――ああ。
―――ホンマ?ほんなら、冬吾さん。もっと食べる?
―――ああ。
おかわりがあると知って、長谷の方を向いた無表情。でもメガネの奥の瞳が少しだけ、角を落としキラキラしているのを、長谷は見逃さない。
冷たい印象ときつい言葉の橘。だけど彼はきっと、とても可愛い人。
いつまでもこんな風に、橘と向き合って食事が出来たら。ちょっと考えるだけでも、幸せな情景だ。
楽しい想像に満足して、長谷は「冬吾さん」と呼び続ける。デザートを食べ終わった橘は、名前で呼ぶのを許可したこと、少し後悔したようだけど。後から撤回したりはしなかった。
おそらく彼は、強い意思と責任感を持った人なのだろう。