ぴく、っと橘の背中が反応したように見えたのは、長谷の気のせいだろうか?彼の素直な感情が伝わってきたように思えて、長谷は少しだけ目を細める。
帰ってきても、おかえり、なんて言葉はない。話すのは食事の時くらいだし、未だにここにいる事情さえ話してもらえない。
長谷と橘の関係は、とても曖昧で奇妙なものだ。それさえ、いつまで続くのかわからない。でも長谷にとってこの数日、橘と過ごす時間は、楽しく温かなものだった。
やっぱりちょっと疲れてるんかなあ……と、苦く笑って頭を掻いた。なんだか甘えた気分になっていて、それを抑え切れなくて。ゆっくり後ろから、橘の身体に腕を回す。
簡単に振り払えるくらい、緩く。でも体温が伝わるくらいの近さで。
「なあ、お願いやから、冬吾さん。オレのワガママ聞いて?」
「………」
「外な、めっちゃ寒かってん。店もほんまに忙しかったわ。せやけどオレ、帰って冬吾さんと何食おかな〜?って、思うだけで頑張れたんやで。スゴない?」
「仕事だろ」
「そうやけど。…あ、めっちゃ簡単に出来るチーズケーキ知ってんねん。30分だけ待ってえや。美味しいねんで!冬吾さん…一緒に食べよ?」
ねだるように甘く掠れた長谷の声。それに、ほだされた訳ではないだろうけど。溜め息を吐いた橘は、腕を押しのけることもせず、顔を上げて長谷を振り返った。
心配などしていない、と冷たく言い放ったくせに。むすっとした唇が零したのは、長谷を気遣ってくれる言葉。
「大丈夫なのか?」
「うん。大丈夫」
「本当だな?」
「全然へーき」
「30分だぞ」
「任せといて。計ってくれててもええで」
「…仕方ないな」
長谷は腕に力を込め、ぎゅっと細い身体を抱きしめて。手酷い反撃をされる前に、素早く橘のそばを離れた。
「ありがと!すぐ作る!」
うきうきと、走る勢いで冷蔵庫を開けに行く。長谷の後姿を見ている橘が「犬かお前は」なんて呟きながら、わずかに微笑んだことを、知ることはできなかった。
長谷にフライパンで作るチーズケーキのレシピを教えてくれたのは、働いている店のオーナーだ。
賄いとして作ってくれたそれは、いつも彼女が作る繊細なドルチェとは違う、シンプルで優しい味だった。