―――私、弟と妹がいるんだけど〜。昔ね〜弟が交通事故で死にかけたの〜。その時はせっかく一命を取り留めたのに〜意識を取り戻してしばらくは、なぜか恐怖で物が食べられなくなって〜。みんな困っちゃってね〜。それで私、入院してた病院にコンロを持ち込んで〜これを作ったの〜。
怒られちゃった〜と、いつもおっとりした喋り方のオーナーは笑っていた。幼い彼女が精一杯、弟のために作ったチーズケーキ。
長谷が教えてもらった時に食べたものは、ふんわり柔らかくて。まるで絵本に出てきそうな、素朴で可愛い淡い色合いのケーキだった。
……けして、いま橘がフォークを刺したような、古城の煉瓦を思わせるようなチーズケーキではない。
「お茶、入ったで〜」
「ああ」
それでも相変わらず橘は、まるで食べ終わるのを惜しむかのように。古い煉瓦に似たそれを、ゆっくり味わっている。
どこから見ても煉瓦か、切り出した岩。しかし食べてみると、ふわふわ柔らかいから不思議だ。
「冬吾さん、美味しい?」
「ああ」
「めっちゃ優しい味やろ」
「ああ」
「オレな、これ食べた時、オーナーのことがそれまで以上に、好きになってんで」
「そうか」
「美味しいもん作るヒトと、美味しそうに食べてくれるヒトが好きやねん」
「そうか」
「…冬吾さんも、美味しそうに食べてくれるやんか?」
「ああ」
「このまんま、本気で好きになってもええ?」
目の前のチーズケーキに集中していた橘だが、さすがに手を止め顔を上げた。
いつもデザートを食べている間だけ、上の空になってしまう橘だけど。どうやら話を聞いていないわけではないらしい。
「…なんだと?」
「びっくりした。話、聞いてたんや」
「当たり前だろ」
「うーん…流されへんか。残念」
「冗談は大概にしろ」
「ははは、ごめんごめん」
冗談ではないのだけど。長谷はとりあえず笑って、橘がもう一度、チーズケーキに意識を持っていかれるのを待っていた。
「冬吾さ〜ん?」
「なんだ」
「あんなあ、今晩、めっちゃ冷えんねんて」
「それで」
「リビング寒いな〜」
「だろうな」
返答のバリエーションは増えたが、声のトーンがしだいに、不確かなものになっていく。
今度は失敗しないよう、橘の表情を見つめながら、長谷は慎重に言葉を選んでいた。