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言われるまでもなく、プロ野球選手になることが、幼い頃からの夢だっから。それだけを目指し、頑張っていたから。
思い出させて欲しくなかった。もう野球が出来ないことを、今まで野球ばかりしていた自分を、忘れてしまいたかったのに。
「…しんどかってん」
「ああ」
「めっちゃ、しんどくて。逃げることばっかり考えとって。鬱陶しい声から耳塞いでる時にな。そーいうたらオレ、メシ食うてる時だけが幸せやなって。思ったんや」
じいっと見上げてくる橘の視線に気付き、長谷はにこりと微笑んだ。
橘の吐いた溜め息は、けして長谷を責めているわけじゃない。
「それが今の仕事に就いた理由か?」
「単純?」
「そうだな」
「うん、単純な話や。メシ食うてるときが幸せ。美味いメシやったらもっと幸せ。ほんならオレも、それ仕事にしよーって。思いついた次の日には、専門学校のパンフ貰いに行っとった」
周囲の反対は尋常じゃなかった。
長谷の味方をしてくれたのは、当時担任だった先生くらい。
だけど長谷は、自分の判断を間違っていなかったと信じている。
「オレ、アホやから。一つのことしか頑張られへんねん。野球、いうたら野球ばっかり。料理、いうたら料理ばっかり。せやから一番好きなものにしとかな、続けられへんやろ」
細い身体を抱いていた大きな手が、布団の中でゆっくり移動して、橘の滑らかな頬を撫でる。
「人も同じや…。好きになったら、その人しか見えへんようになる」
「………」
「冬吾さんのこと、好きになりたい。ホンマに好きになりたいんや。いっぺん好きになったら、ケリつくまでずーっと好きでおるから…迷惑やったら、今のうちに止めて」
「………」
「好きになってもええ?これからも一緒に、オレとご飯、食べてえや」
甘く囁きながら、指先で橘の唇をたどる。しばらくの間、沈黙が続いていた。
冬吾さん、ともう一度、長谷が掠れた声で橘を呼んだとき。わずかに身を震わせた橘は、薄く口を開いた。
「長谷」
初めて名前を呼ばれて。長谷が嬉しそうに瞳を輝かせる。
「真幸(マサキ)って呼んで?オレは冬吾さんって呼んでる」
「私は明日、ここを出る」
唐突な言葉に驚きを隠せない。
さっきまで嬉しそうだった瞳を、限界まで見開いた長谷はしかし、すぐに落ち着き目を閉じた。