空いたイスに預かった荷物を置くと、仕方なく腰掛けた橘を見つめて口元を歪めた。
「ご来店、ありがとうございます」
「ああ」
「どうせバレるんで言いますが、俺たちスタッフは全員、貴方が長谷の家にしばらくいたことも、それで長谷がこの数日浮かれていたことも知ってます」
さらりと言い放った吉野の言葉に、橘は一瞬眉を吊り上げ、長谷を睨んだけど。今更だと思ったのか、肩の力を抜いた。
「…そうか」
「もちろん失恋したその日に、貴方に一目惚れした長谷と、まだどうにもなってないってこともね」
「ちょっ、マスター!」
「失恋…?」
暴露にもほどがある。
焦る長谷の顔を見つめ、そんな事情があって自分を口説こうとしたのかと、橘の視線が鋭さを増した時。冷たい瞳の威圧感を少しも意に介さず、吉野は気軽に橘の肩を叩いた。
「お気に召しませんか?俺は悪くないと思うんですけどね」
「………」
「長谷が玉砕したとき、俺はあいつがきっと、しばらく誰のことも受け入れないと思っていました。バカ正直で、不器用なくらい一途な、どうしようもない奴なんで」
「………」
「一番人を好きにならない時期に、それでも惚れたって言うんです。俺は貴方が、よっぽど長谷を惹きつける何かを、持っているんだって思いましたよ」
橘に話しかけるため、屈んでいた背中を伸ばして。吉野は厨房を指さした。
「ここが長谷の戦場です。今のあいつが一番輝く場所なんです。もちろん、長谷をどうするかは、貴方次第ですが。ここで働く長谷の姿を見るのも、悪くないかと思いますよ」
「マスター…」
「ってことで長谷、キリキリ働け!橘さんに見惚れてヘマでもしやがったら、承知しねえからなっ」
「了解や!任してっ」
うきうきと仕事に取り掛かる。これで賭けはチャラだな、などと考えている吉野の本音にも気付かずに。
眉を寄せて、言われたとおり長谷の姿を追っている橘を見下ろし、吉野は柔らかく微笑んだ。
「食事をするには落ち着かない場所かもしれませんが、ワインでも飲んで気楽にどうぞ。料金は全て、うちのオーナーが負担しますから」
その言葉に、笑顔で状況を見守っていたオーナー不満そうな声を上げる。
「ちょっと〜!何よそれ、この場合は長谷くんでしょ〜っ!」
「この経緯ならアンタだろ」
「ひっど〜い!」
「せっかくそんな恰好してんだ、客に挨拶回りでもして来い」
「話は終わってないんだから〜っ」
「いいから来いよ、ナツアキ来てんぞ」
常連客の名を挙げ、吉野は邪魔だとばかりにオーナーを引っ張って歩き出す。
騒がしい二人の姿を複雑な表情で見送った橘は、仕事に取り掛かった長谷の、真剣な横顔に視線を戻した。