出版社に入社して以来、無茶を言われたことなら今まで何度もあるが、今回のことは群を抜いている。
慌てて社を飛び出した千歳は、会社の前に常駐しているタクシーに飛び乗って、運転手にメモを押し付け「行き先ここです、すいません、急いでください!」と叫んでいた。
走り出した車内で、ようやく落ち着きを取り戻し、手にしていた企画ファイルを開く。
挟んであったのは、略歴しか載っていないRenというカメラマンのプロフィールと、岩橋が一目惚れしたという例の記事のコピー。あとは大まかなことしか決まっていない企画概要。
日本各地をRenが巡り、思うまま写真を撮って、それにコラムを添える、毎回6ページの企画だ。
「6ページって…正気?」
初めてライターの仕事を受けたカメラマンと、移動したての新人に、6ページも割く気なのか。カタチにならなかったらどうするつもりなのだろう。
――そりゃ、差し替えの記事ぐらい用意してあるんだろうけど。
身体の奥から、ぐうっと不安がせり上がってくる。胃の辺りをさすりながら、それを必死になだめて、千歳は岩橋の惚れこんだ、例の記事に目を通した。
――へえ…これは、いいな…
編集長が気に入ったというのも頷ける。
写真家らしい、細やかな描写。酒蔵の杜氏を取材したそれは、職人たちの仕事を注意深く観察していた同行カメラマンだからこそ、書けたものだと思う。
熱気や躍動感が伝わる写真と、静かで鋭い文章は、互いに引き立てあっていて興味をそそられた。
改めてRenというカメラマンのプロフィールを見てみる。
ざっと並んだ履歴だけのそれに、千歳は思わず頬を引きつらせた。
――こ、この出身大学って…
千歳も名前を知っている美大だ。写真学科があるのも知っている。なにしろ高校で一番親しくしていた同級生が、進学した学校なのだから。
――まさかこの大学出身で、カメラマンで、同い年。名前が「れん」って、まさかそんなこと…
ありえない、と思うけど。
じわりと冷や汗が浮かんでしまう。焦りが指先を震わせたとき、静かに景色の中を走っていたタクシーが止まった。
着きましたよ、という運転手の声。
窓から愕然とした表情で外を見つめ、千歳は自分の頭をよぎった予感が当たったこと知る。
目の前に広がる光景を、にわかには信じられない。いや、信じたくないという方が正しいのか。