「お客さん?」
「は、はいっ」
「ここですよ、メモの住所」
不審もあらわに振り返る運転手。
編集長に渡されたメモをよく確かめもせず、乗り込んだタクシーの運転手に渡してしまったことを激しく後悔するが、もう手遅れだった。
せめて途中、一度でも顔を上げ外を見ていれば、見覚えのある場所に向かっていると、気付けただろうに。
「ちょっとお客さんっ」
「え?…あ、す、すいません。領収書お願いします」
慌てて支払いを済ませた千歳が仕方なく車を降りると、料金さえ払ってくれればそれでいいとばかりに、タクシーはそそくさと離れて行ってしまった。
どきどきと、心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。
千歳は泣きそうになりながら、目の前に建つ古い洋館を見上げた。
かつてはどれほど豪華な建物だったのだろう。今は鬱蒼とした緑の中に埋もれてしまっている、それ。
千歳の記憶よりいっそう混沌としたように見える屋敷は、西洋風の建物を完全に裏切って、庭の隅々まで南国の鮮やかな緑に覆われていた。
どこもかしこも、緑、緑、緑。
おびただしい数の植物はどれも、東南アジアを思わせる濃いグリーン。
風に揺れてざわざわとざわめく様子は、家主の趣味なのだとしても、ちょっと行き過ぎに思える。
熱帯植物で占められた広い庭の向こう、大きな屋敷の住人を、千歳は知っていた。
そしてここが、どんな場所なのか。
過去たった一度だけ来訪したことのある千歳には、忘れられない記憶だ。
「…千歳?」
低い声で名前を呼ばれ、はっとして門の方を見る。こちらも立ち竦んでいる千歳と同じように、驚いた表情を浮かべていた。
千歳はタクシーの中で確認していた企画書のファイルを握り締め、男を見つめる。
真っ白なシャツとジーンズに包まれた、細身の長身。見た目以上に筋肉質な身体は、千歳が覚えているよりずっとシャープになっているようだ。
きれいに整った端正な顔なのに、男性的で野性味がある。鋭い目つきに凶暴さを感じるくらいだ。
でも彼が、本当はとても優しい人だということを、千歳は誰より知っている。
「葛(カズラ)…」
昔と同じように、彼の名前を呼ぶと、封じ込めてきたたくさんの感情が、一気に千歳の中へ蘇ってきた。
葛 蓮(レン)。いくら忘れようとしても忘れられなかった高校の同級生。
十年の歳月で子供っぽさを完全に拭い去った青年は、千歳から目をそらすと、渋い表情を浮かべてため息を吐き出した。