自分を奮い立たせて門から庭へ足を踏み入れた千歳は、木々のざわめきが風のせいばかりではないことに気づいて、思わず肩を竦ませた。
身の内から湧き上がってくる恐怖。
視界の端を何かが掠めたと思った瞬間、ヒトとは思えない小さな声が方々から聞こえてくる。
そう、そうだ。
前に来たときも同じだった。
いつもは見えるだけ。なのにここでは、声まで聞こえる。
高校生の頃に一度だけ訪れたことのある蓮の家。あまりの恐怖に、千歳はこの屋敷で経験したことを、忘れようとした。
しかし記憶の奥に封じ込んだそれは今、鮮やかに千歳の中へ蘇っている。
見えるだけでも、十分に怖い。
でもこの屋敷に入ると、なぜか彼らの声を聞いてしまう。
理由はわからない。
いや、わからないからこそ怖いのだ。
震える足を一歩一歩踏み出し、なんとか蓮のそばまでたどりついた。
「無理するな」
「だから、大丈夫だって」
「真っ青な顔で言われても、大丈夫になんか見えないんだよ」
ほら、来い。
そう言って蓮は千歳の手を掴み、屋敷のエリアから連れ出そうとしてくれる。
触れた手が、熱い。
千歳は思わず蓮の手を振りほどいてしまった。
「や…っ」
「………」
「ご、ごめんっ!でもホントに、僕は平気だから、あの」
優しい蓮の気遣いをむげに断った申し訳なさで、千歳が言い訳のために口を開こうとしたとき。小さな者たちの声が、いっせいに同じ単語を呟きだした。
…らじゃ…らじゃ…らじゃ…
―――らじゃ?
耳を塞ぎたくなるほど怖いくせに、一度聞いてしまったらどうしても気になってしまう。
たくさんの聞き取りにくい小さな声は、何を言っているかわからない言語を紡ぐのに、その「らじゃ」という言葉だけがはっきりしていた。
―――何だろう…らじゃって
気にしないでおこうと思っているのに、思わず首をかしげた千歳は、手を振りほどかれた蓮の目が鋭くなっているのを見て、きゅうっと胸を詰まらせた。
「ごめん、葛…僕は」
ただ蓮の手が熱くて。何も変わらない自分の想いが、悲しかったから。
何気ない仕草。
昔と同じように触れた、蓮の手。
それはかつての友人として、当たり前の行動なのに。
――やっぱり今でも僕は、葛のことトモダチだなんて思えない…。
でもそんなことを思っているのは、自分だけ。優しい蓮の気遣いを、振り払ってしまうなんて。