「あの…」
「そろそろ時間だ。悪いな」
「ううん、全然。送ってくれて、本当にありがとう」
千歳が言い終わるかどうかというタイミングで、窓が閉まっていく。蓮は別れの挨拶もそこそこに、車を出してしまった。
ぽつんと立ち尽くし、離れていく車を見送っていた千歳は、だから自分に歩み寄る人影に気付かない。
「早かったのね」
声をかけられ、ようやく振り返った。
千歳に近づいてきた女性は、怪訝な表情で車を見送っている。
「理子(リコ)さん」
「今の車、千歳を送って来たの?」
「うん」
「もしかして早退した?」
「えっと…ちょっと込み入った事情っていうか、情けない事情で、強制的に直帰させられたんだ」
「珍しいのね…気分でも悪い?」
心配そうに千歳を見つめている。
千歳が理子と呼んだ彼女は、はっきりした顔立ちの美しい女性。
見た目はかなりの美人だが、視線の強さや雰囲気に、黙っていてもわかるほど、気の強さが現れている。背が高いのも、そう見える理由かもしれない。女性としては長身の理子に、圧倒されてしまう男もいるだろう。
ローヒールを履いている今、彼女の視線はちょうど千歳と同じくらいだ。これでハイヒールでも履かれたら、男は大抵見下ろされてしまう。
しかし長身で均整の取れた蓮なら、理子と一緒に立っているだけでも絵になるだろう。美しい二人の姿が容易に想像できて、千歳は表情を緩め、柔らかく微笑んだ。
「平気だよ。買い物?」
「ええ」
「貸して、持つから」
「ありがとう」
近所にあるスーパーのロゴが入った袋を渡し、理子はまだ納得の行かない顔で千歳を見つめている。
その探るような視線に耐えかね、下を向いたままの千歳は、耳まで赤くなりながらぼそぼそ呟いた。
「さっきの車…あれ、葛」
「え?」
「葛、蓮…。前に話したよね」
不思議そうに千歳の言葉を聞いていた理子の中で、その名前の人物が誰なのか、はじき出されたのだろう。
葛 蓮。
千歳の同級生。初恋の人。
彼女は驚いた顔になるや否や、車の去っていった方を振り返った。
「葛くん?葛くんって、あの葛くん?」
「そう…その葛クン」
「会ったの?どうしてまた」
「今度の仕事相手、なんだ。今朝まで知らなかったけど」
いつもは表情の変化に乏しい女性なのだが、さすがにこの偶然には驚いたらしい。目を見開いてまじまじと千歳を見た後、その瞳をすうっと細めた。
「なるほど、込み入った事情なのね」
「うん…まあ」
「わかった、家で聞くわ。ほら、おいで」
渡したばかりの袋を奪い取り、理子は千歳の手を掴んで歩き出す。
二人の帰る先は、同じマンションの同じ部屋。表札には三人の名前が並んでいる。
理子と、彼女の息子である虎臣(トラオミ)。
一番上には理子の夫である、千歳の名前が刻んであった。