その彼にサラリーマンの出張をテーマにした、毒舌コラムの企画を持ちかけ、山田が担当していたのだが。
怒気満面の先輩編集者を見つめて、千歳は首をかしげた。
「関口さんって、亜波(アナミ)工業の関口会長ですよね?」
「知ってんのか?東」
「はい。前の編集部にいたとき、何度かお世話になりました」
千歳が以前いたビジネス誌でも、関口はコラムを書いていたのだ。何度か原稿を貰いに行っている。
「もしかしたら会長、体調を崩されているせいで、機嫌が悪いのかもしれません」
「誰の情報だ、それ」
「先月、奥様からメールで。大したことはないそうですが、苛々なさっていて大変だとお聞きしました」
「随分親しいんだな」
「以前ご自宅へお伺いしたとき、会長の原稿をお待ちしている間に、奥様が携帯電話の使い方を教えて欲しいとおっしゃって…それ以来、奥様から時々メールをいただくんです」
「じゃあ今でも親交があんのか?」
「親交というほどではありませんが、何度かご夫妻とお食事くらいは。…行ってきましょうか?関口会長のお宅」
言いながら千歳はすでに立ち上がり、カバンを手にしている。
「よし、俺も同行する」
「わかりました。あちらへ連絡入れます」
バタバタと用意を始める山田を見ながら携帯を手にした千歳を見て、岩橋はにこにこ笑う。こういうところこそ、千歳の評価される部分なのだ。
曇りのない目で人を見つめる千歳は、すんなり相手の心に溶け込んでしまう。余計なことを言わず、何がいま必要なのか献身的に考え、すばやく実行するのだ。
気難しいことで有名な関口も、千歳に手懐けられた口だろう。
「東くん、遅くなったら直帰でいいから、関口さんのことよろしく」
「わかりました。ありがとうございます」
岩橋に礼を述べ、山田と一緒に編集部を出ていく千歳は、歩きながら携帯をかけている。すでに会う約束を取り付けてしまったようだ。
その様子を見送りながら、中沢は思わず首を傾げていた。
「東さん…なんでアレで自分に自信、持てないんでしょうね?」
「ホントにねえ。まあ、そういうのも東くんのいいところなんだけど」
今までの編集部で、千歳は便利なアシスタント扱いだったという。実際そう言われたこともあるそうだ。しかし千歳と一緒に仕事をすれば、彼がいかに優秀であるかなんて、誰でもわかること。「千歳が担当でなければイヤだ」と言って、原稿の依頼を断る人間もいるのだとか。
その証拠に岩橋は、以前千歳がいた部署の編集長たちから、早く千歳を手放してくれないかと嘆願されている。
もちろん千歳は知らないことだ。
岩橋としても、手離してから千歳の価値に気付いた彼らに、千歳を返してやる気は更々なかった。