「泣くほど嫌なのか」
「だって…わかんないよ…どうして?こんな、いきなり」
「何でもすると言ったのは、お前だ」
「そういう意味じゃないでしょ?!大体それってラジャさんのことだし、それに」
「何だよ」
「そ、それにその、…は、は」
「は?」
「…初めて、なのに…」
必死の顔で千歳が訴えるのを聞き、しばらく唖然としていた蓮は、わけがわからないといった顔で首をかしげる。
「男は初めて、か?わかってるさ、そんなこと」
「違うっ!…あ、いや…違わないけど…だから、その」
「何だよ。はっきり言え」
「だ、から…誰とも、こんなこと…したこと、ない…」
そこまで言われてもまだ理解できずに、蓮は眉を寄せる。どうしても千歳の言葉と既婚者である彼の立場が繋がらないのだ。
「お前…誰ともって、嫁さんとは」
「…してない」
「してない…?」
呆然と尋ねる蓮の言葉に、千歳は固く目を閉じたまま、何度も頷いていた。
驚異的に恥ずかしがり屋で、晩生で、照れ屋の千歳だけど。さすがの蓮にも予想外の言葉だったのだろう。
いつも表情に乏しい彼が、目を見開くほど驚いて。それから千歳の上で、肩を震わせ笑い出した。
「…笑うことないじゃないか…」
「いや、悪い…しかしそれは、さすがに予想外だった」
「バカにしてっ」
本気でへそを曲げてしまった千歳が、再び泣きそうに顔を歪めたのを見て、蓮はなんとか笑いをおさめる。
…だって、まさか。
十年もの間離れていたこの可愛いイキモノが、まっさらの状態で自分のもとへ戻ってくるなんて、思ってもみなかったから。
蓮は肩を竦めて、ようやく千歳の上から降りた。そのままベッドの上で壁に背をつけて座り込むと、千歳の腕を引っ張って身を起こさせる。
「蓮?」
「怖がらせて悪かった」
「…うん」
俯いて胸元を掻き合わせる千歳を、自分の腿のあたりに座らせた。
「あの…え?」
さっきの方が距離は近かったけど、今の方がドキドキする。
千歳を自分の足の上に乗せたままで、蓮はまだ赤みの取れない頬を、優しく撫でてくれた。
その穏やかな瞳。いつも千歳を見守ってくれた、温かな視線だ。
「蓮…」
「バカにしたわけじゃない。嬉しかっただけだ」
「…ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、もうしない?」
「…今日はな」
微妙な返答だったけど。千歳はほっと息を吐いて、さっきとは別人のように静かになった蓮を見つめる。
自分に向けられたきれいな顔。柔らかく笑みを形成している瞳。さっきまではそれが、泣くほど怖かったのに。