千歳の所属する編集部から仕事を依頼されたことはないが、それでも広い出版社の中で、蓮は何度か千歳を見かけていた。
「…俺が本当に覚悟を決めたのは五年前、ばあさんの葬式へ行った時だ」
「………」
「雨が、降ってたよな」
「うん…」
「雨脚が強くなっても、亡くなったばあさんを慕う弔問客が、途切れることはなかった。でも俺はその中に混ざって、親族席で泣いてるお前ばかりを見ていたんだ」
孤独な独居老人のものとは思えない、盛大な葬式。近所の人々や、下宿で世話になった過去の店子まで、会場は人で溢れかえっていた。
「お前が泣いてて、ガキの虎臣とお前の嫁さんが、そばで必死に宥めてた。素直にいい家族だと思ったよ」
「………」
「だから俺は、ばあさんの遺影に、これが最後だと誓ったんだ」
声をかけられもないくせに、いつまでも千歳に心を残し、その姿を追いかけるのは最後にしようと。蓮はあの時初めて、覚悟を決めた。
「お前のことばかり考えていた時間を、全て仕事に費やした。とにかく考える時間を作りたくなかったから、どんな小さな仕事でも請けたよ」
それが自分の十年間。
溜息を吐いてぐったりとベッドに手をついた蓮を見上げ、千歳は泣きながら蓮の手を握る。
「でも…だから、会えた」
「ああ」
理子の祖母が亡くなってから五年、蓮は本当に、寝る間もないくらい働いていた。仕事も家事も、一切手を抜かなかった。千歳を忘れようと必死だったのだ。
しかしその仕事が蓮を支え、今の立場を築き上げてくれた。
おかげで千歳は、蓮に再会できたのだ。
「蓮は今、ここにいてくれる」
「そうだな」
苦しいのか、幸せなのか、辛いのか。千歳にはもう判断できない。
執拗とも言える蓮の行動を、非難する人もいるだろう。でも千歳は嬉しいのだ。
自分が蓮を苦しめ続けたのだとわかっても、それを喜んでいる自分がいる。
切なくて、胸が痛い。
千歳の掴んでいる蓮の手が、力強く握り返してくれる。重なった二人分の手を、千歳は自分の胸に押し付けた。
「ずっと苦しめていて、ごめんなさい」
「俺が勝手にしたことだ」
「ねえ、まだ間に合う?もう一度ちゃんと言ったら、聞いてくれる?」
随分と遠回りをしてしまたったけど。もう千歳は、怯えて逃げだすばかりだった頃とは違うから。
泣き顔のまま、それでもまっすぐに蓮を見つめる。懸命な表情の千歳に、蓮はふっと優しい笑顔を見せた。
「ダメだな」
「え?」
「待つのは懲りた」