「違う?…っていうか、知ってるの?」
『知ってるわ。…ありがとう、千歳。ちゃんとトラを叱ってくれて』
「理子さん」
『千歳がトラを叩いて叱ったって聞いたとき、あなたにトラを預けてきて、本当に良かったと思ったの。謝ることなんかじゃないわ』
「…うん」
理子からそう言ってもらえると、救われる。ラジャと話しても、虎臣自身と話しても引っかかっていた棘が、ようやく抜けたように思った。
『それで?』
「え?…他に?」
なんだろう…。首をかしげる千歳が、どうにも思いつかないのだと知って、理子は拗ねた声になる。
『いいの?そんなこと言ってて』
「で、でも」
『あんまり私をないがしろにすると、一緒にバージンロード歩いてあげないわよ』
もしフラれたら慰めてあげるし、上手くいったら一緒にバージンロードを歩いてあげる。
確か千歳と蓮に再会したことを知ったとき、理子が言ってくれた言葉だ。
まさかイタリアにいる理子が知っているとは思わなくて、千歳はかーっと顔を赤くする。
「な、なんでそれ!」
慌てる千歳の声を聞いて、理子はくすくす笑っていた。
『驚いた?』
「驚くよ!誰からその話…」
『中沢くんよ』
「ナカザワ?」
理子と繋がる人物に、そんな人がいただろうか。うろたえる千歳に理子は、あくまで楽しそうだ。
『同僚の名前もわからないの?』
「え…同僚って、まさか!」
『ええ』
「編集部の中沢くん?!」
中沢は、千歳の隣の席で仕事をしている同僚だ。予想外の名前を聞いて、千歳は言葉が出てこない。
『中沢くん、千歳が移動する前から、私が働いていた店の常連だったの。言わなかったかしら』
「聞いてないよっ」
『店を辞める日にも来てくれてね。せっかくだからメアド交換してきたの。今日、家に帰ったら中沢くんからメールが来てて、最近の千歳が幸せそうだから、上手くいったんじゃないかって』
「そ、そんな」
『たまに腰を押さえて、だるそうにしてるから確実だって』
「ちょっと!」
そんなことまでバレているなんて、今日どんな顔で会社へ行けばいいのか。
電話を握り締めて赤くなる千歳には、ニヤニヤ笑っている理子が見えるようだ。でもきっと、イタリアにいる理子にも、顔を上げられないくらい赤くなっている千歳が見えているだろう。
『大体ね、千歳。あなた私がいきなり家を出て行けとか、葛くんの家に住む話をよく聞きもせず賛成したり、おかしいと思わなかったの?』
「それは…多少は思ったけど…」
唐突に大きな決断をした理子のこと、珍しいとは思っていた。何の相談もされなかったことを、寂しく思ったくらいだ。