ぼくはもうこの会社のバイトではないし、たぶんこんな大きな会社、二度と足を踏み入れることもないだろう。
東さんはちょっと深刻な顔になって、ぼくの顔を覗き込んだ。
「じゃあこの後は、とくに予定もないんだね?」
「はい…」
「だったら、ちょっとおいで」
思ってもみなかった強い力で、脱臼したのと反対側の腕を掴まれる。ぼくの返事を聞かず、東さんは足早に歩き出した。
なにか東さんを怒らせるようなことを、ぼくは言ったんだろうか。迷惑をかけ通しだったのは自覚しているけど。
おろおろしながら、黙って一緒に歩く。
優しい東さんまで怒らせてしまったことも、その理由が思いつかない自分の不甲斐なさにも、情けないのを通り越して悲しくなってくる。
歩いていたのはほんの少しの間だったのに、沈黙が怖くてたどり着くまでの道が、とても長く感じた。
東さんに連れて行かれたのは、出版社の裏通りにあるカフェ。まだ午前中だから、お客さんもあまりいない店内。
一番奥の席に引っ張っていかれて、壁側の席に座るよう言われた。
「あの…東さん、ぼく」
「何でもいいから、頼んで。奢ってあげるから」
「いえ、あの」
「じゃあコーヒーでいい?」
「…はい」
「コーヒーふたつ」
さっさと頼んでしまった東さんは、手にしていたコートやカバンを置き、じっとぼくを見つめる。
真っ直ぐな視線に晒されたぼくは、どうしていいかわからなくて、もごもごとコーヒーのお礼を口にした。
「すいません…」
「いいよ、僕が引っ張ってきたんだから。それより二宮くん、これからどうするの?」
「これから?…もう帰るだけですけど…」
「そうじゃなくてこの先だよ。そのケガじゃ次のバイトなんて、決められないでしょ」
そうか……東さんは怒ってるんじゃなくて、ぼくの行く末を気にしてくれているんだ。
少しだけほっとしたぼくは、頬の緊張を緩めて頷いた。
「そう…。ケガの状態は?前田編集長から、かなり酷いみたいだって聞いたけど。お医者さんは治るまで、どれくらいかかるって言ってるの?」
「あ、の」
「うん」
「すいません…行ってないんです、病院」
小さく呟いたぼくの言葉に、東さんは驚いて目を見開いている。
「脱臼だからって、甘く見ちゃダメだよ。酷いときは骨折よりも大変なんだから。後遺症でも残ったらどうするの?今のうちにちゃんと治療しておかなきゃ」
「す、すいません」
「謝ることじゃないでしょ。編集部から、お見舞金が出てるはずだよね?病院も紹介してもらったんじゃないの?」