A-T:蒼紀
蒼紀は東という編集者と共に、ある作家の家を訪れていた。
深々と頭を下げ、自分の代わりに謝罪してくれている千歳の隣で、蒼紀は身を小さくしていることしか出来ない。
編集部でバイトをしていた蒼紀は、手のつけようもないくらい、この作家を怒らせてしまったのだ。
原稿を受け取りに行くはずが、交通機関のトラブルで約束の時間に間に合わず、電源落ちの携帯では連絡すら取れなかった。
しかも駅から迷いに迷って、ようやく作家の家にたどり着き、怒鳴り声と共に受け取った原稿は、帰社の途中、ひったくりに遭って奪われてしまう。
データもコピーもない手書きの原稿。
作家の怒りは当然のものだが、紛失は蒼紀のせいじゃない。彼は彼なりに奪われまいと抵抗し、犯人の乗っていた原付バイクに引きずられて、足を怪我をしている。
それでも作家の怒りは収まらない。
担当編集、編集長、誰が謝罪しても事態は解決せず、ついに部署違いの千歳が呼び出されたのだ。彼はその作家の、お気に入りなので。
「まあ…東君がそう言うなら…」
君が担当の頃はこんなことなかったのに、とグチりながらも、作家は書き直した原稿を渡してくれた。
改めて謝罪し、二人で家を出る。
出版社に戻ろうとする千歳に、別れを切り出した蒼紀は、彼から引き止められた。
「一緒に帰らないの?」
「はい…あの、クビになったので」
蒼紀の零した言葉に、千歳は驚きを隠せない。東京へ出てきて就職したばかりの勤め先が倒産し、ようやく探し当てて出版社へバイトの面接を受けに行ったとき。蒼紀を採用してくれたのは、当時まだその編集部にいた千歳だったのだ。
入れ違いに所属の変わった千歳と、一緒に仕事をしたのは短い期間だったけど。彼は要領の悪い蒼紀に、辛抱強く丁寧に仕事を教えてくれた人。
実家を出ての一人暮らしで、ろくに友人もおらず、頼れる親戚もいない蒼紀の身の上を知っていた千歳は、今どうしているのかと尋ねてくれる。
かつて優しくしてくれた千歳の言葉に、蒼紀はつい自分の現状を話してしまった。
クビになったものの、足を引きずっているような状況では、次のバイトが見つからないこと。
治療費が払えないため、編集部からの見舞金が切れた時点で、医者へも行っていないこと。
しかも住んでいたアパートは、前から建て替えのため出て行って欲しいといわれていて、その期限が過ぎ、出て行かざるをえなくなった。
ようするに蒼紀は、いま流行の「ネカフェ難民」になっているのだ。
あまりにも運のない話を、言葉もなく聞いていた千歳は、立ち去ろうとする蒼紀を再び引き止めた。
とにかくこの原稿を届けてくるから、出版社の近くで待ってなさい。これからのことを一緒に考えよう。
千歳の言葉は嬉しかったが、これ以上迷惑はかけられないと、蒼紀は首を振り譲ろうとしない。埒が明かないと思ったのか、千歳は蒼紀をタクシーに押し込んだ。そのまま出版社まで連れてくると、会社より先に近くの病院へ連れて行き、勝手に治療費を払ってしまった。
「貸してあげただけだから、君は返さなきゃいけない。でも携帯も仕事もない状況じゃ、連絡すら取れないでしょ。だからとにかく待ってなさい。いいね?」
そんな風に言われたら、逃げることも出来なくて。蒼紀は言われたとおり、千歳を待っていた。
夕方になって現れた千歳は、蒼紀を伴って歩き出す。
「荷物はどこに置いてるの?」
「駅のコインロッカーです…」
出版社で千歳と合流するため、ここから一番近い駅のロッカーに預けてあったのだ。
ちょうどいい、とそこへ寄って荷物を回収する。少ないとはいえ、蒼紀の全財産だ。二つに分かれたボストンバックの片方を、千歳は何も言わず持ってくれた。
前もって買ってあったのか、切符を渡され電車に乗り込む。移動する間、千歳はこれからのことを話し出した。
自分はいま、友人の家に息子と一緒に住んでいる。彼の家は大きな邸宅で、ちょうど今日から住人が一人増えるらしい。出版社から連絡したら、家主の友人は「もう一人くらい増えても問題ない」と了承してくれたそうだ。
千歳は笑って言うが、蒼紀はとんでもないと首を振る。でも千歳は聞き入れようとしなかった。
「ねえ、少し落ち着いて考えようよ。食べるために仕事をするのは、当然だと思うけど。でも生きるって、それだけじゃないよね?二宮君は何がしたいの?どんな夢を描いて、東京へ出てきたの?」
ただ義兄から逃げたくて、家を出ることしか考えていなかった蒼紀は、千歳の言葉に答えられない。
自分には何も出来ないから、と小さく呟いた蒼紀に、千歳は「それは答えになってないよ」と言ったけど。でもそう言いながらも、優しく頭を撫でてくれた。
「安心して暮らせる場所じゃないと、先のことなんか考えられないでしょ。お金のことは、ケガが治ってから相談しよう」
東京へ出てきて、初めて緊張が解けたような気がした。
何も返せない蒼紀にとって、千歳の好意は申し訳ないばかりだったけど。彼を失望させないためにも、今は頷くしかない。
出版社から約一時間。
熱帯雨林のような屋敷に、蒼紀は不安に苛まれながら、足を踏み入れた。
迎えに出てくれた男は葛蓮と名乗り、無愛想ながらも蒼紀を気遣って、荷物を受け取ってくれた。
「あの…本当にいいんですか」
「一人も二人も変わらない。気にするな」
「…すいません」
「そういえばまだ来てないの?咲良くん、だっけ」
千歳が聞いたとき、門から入ってきた人影に蓮が顔を上げる。
「よくたどり着けたな…駅から連絡すれば迎えに行ってやったのに」
その言葉に蒼紀と千歳が振り返ると、背の高い外国人が足早に近寄って、いきなり蓮の身体を抱きしめた。
「会いたかったヨ」
「…なに?」
「一度会ってシマッタら、もう一日モ離れたくナクナッテしまったんダ。昨日がどんなに長カッタか」
「おい…何を言って…」
「キミを愛してるんダ、レン」
驚く三人に構わず、咲良が蓮に顔を寄せていく。さすがに蓮は彼を押しのけた。
「血迷うな、俺は男だ」
「わかってるヨ、レン」
「…どういう…」
「ボクはゲイだから。何も問題ナイヨ」
見上げるような大男の発言に、誰よりも青ざめたのは蒼紀だ。
身体の奥に押し込んでいた苦しさの蓋が開き、しばらくの間、蒼紀は身動きが取れなかった。