ふうっと息を吐いたアルムは、まだ目覚めぬ兄の髪に指をくぐらせる。
「…貴方は俺から逃げたかったのかな…大切な賢護石(ケンゴセキ)を、犠牲にしてでも…」
答える者のない問いかけ。
弟の想いを拒絶するためにクリスがとった行動は、むしろ逆に、アルムの背中を押してしまったのだ。
あの事がなければアルムは今、こうして兄の肌を抱いていられなかったのだから。
新しい紫の賢護石ファンは、アルムから見ても、目が覚めるような美貌の持ち主だった。加えて彼はまだ心が幼く、慣れぬ王宮の中で常に不安を抱えていた。
華奢な肢体と、頼りない雰囲気は、確かに兄を髣髴とさせる。
彼は時折、悲しげに目を伏せ、縋るようにアルムの腕を掴んだ。どこか兄と重なって見えるその姿を見て、少しでもこの幼い賢護石の力になってやりたいと。そう思ったのは、紛れもない事実。
しかしファンは、クリスじゃない。
まるで身代わりを差し出すかのように、兄はファンを押し付けてきた。面倒を見てやって欲しいなんて、くだらない詭弁を添えて。
彼は本当にそんなことで、自分の思いが移り変わるとでも思っていたのだろうか。
「貴方の代わりなんか、誰にも出来ないんだよ、クリス…。俺が愛しているのは、貴方だけなんだから」
囁いて、耳朶に唇を触れさせる。
眠りの中の兄が、くすぐったそうに身を捩る。
その仕草があまりに可愛くて、アルムは幸せそうに頬を綻ばせた。
ファンとクリスは少し雰囲気が似ているだけだ。アルムが愛しているのは、兄の容姿ばかりじゃない。
誰であっても、クリスの代わりになんか、なるはずがないのに。
もしクリスが本当に、ファンを理由にしてアルムから離れて行こうとしたのなら。それはあまりにも、弟の想いを軽んじていたと、言わざるを得ないだろう。
全ての努力は、昨日の夜に崩れ去った。
懸命に兄への想いを抑え込んでいたアルムと。なりふり構わず、弟を遠ざけようとしたクリス。
二人の無駄な足掻きは、満月の夜に終わりを告げたのだ。
昨夜アルムは、いつも通り兄にファンの様子を伝えに行った。
数日前、無理やり議会へ引っ張り出されたファンは、そこで数々の嘲笑や誹謗を受け、精神的に参っていたからだ。
とても心配していたクリスを安心させるため、アルムは出来る限りファンに付き添い、毎夜兄の元へその様子を知らせに行っていた。
しかし兄は昨夜に限って、アルムを部屋へ入れようとしなかったのだ。
―――もう報告など無用ですよ、アルム。今後はウィルから経過を伺います。貴方はもっとファンのそばに、ついていてあげてください…
視線を逸らせたまま呟く兄の言葉を聞いて、アルムは自分自身が無用だと言われたように思った。
まるで兄にはウィルが、自分にはファンがいるとでも、言われたような気がして。
だからもうお前は来るなと、そう言いたいんじゃないかと思って。
部屋にウィルがいるのかと聞いたら、いないと答えたけど。アルムは兄の言葉を信じられず、強引に中へ押し入った。